東洋・日本から「自由」を考える―フリーダムなど知る前に「自由」があった
①中国
『荘子』「逍遙游」第一では「游無窮者……至人無己、神人無功、聖人無名」と「無窮」に「游」することにおいて自我も功名も「無」いと述べられている。これは超越というより解脱と言える。それは西洋近代の「自由」に類似するが*1、自己の自由と他者の自由の矛盾や共存という緊張関係を避け、「逍遙」を志向するという特質がうかがえる。
それでは緊張のない伸び伸びとした社会なのかといえば、むしろ、東洋的専制の帝国が形態を変えて再生産されてきたのが現実である。マクロ的な観点からみれば、現在の中国共産党独裁体制も東洋的専制の一形態と捉えることができる。
このような歴史を通して帝王と奴才*2・奴隷の組み合わせが強固に構造化され、再生産し続け、アジア的停滞をもたらした。この点は「限界状況におけるアイデンティティ・クライシスの心理歴史的研究(Ⅰ~Ⅲ)」(『社会教育学研究』第46-48号、2019年10-11月)で、慰安婦と兵士の愛と死の研究の前提的考察において論証したので繰り返さない。
②日本
1)マージナリティ
広大な帝国から離れたマージナルな位置にある日本は、東洋的専制を免れてきたと言える。この地政学的な位置と意義は、現在、香港や台湾が中国共産党独裁体制を拒否することにも通じる。
このような視座から、日本における自由の精神や思想の歴史について概観していく。
無論、過大評価をもたらす偏狭な民族主義に注意すべきだが、民族としてのアイデンティティは大切にしなければならない。それがなければ根無し草(デラシネ)になる。
2)「あはれ」~「みづから」―常ではない世界において―
平安文学の「あはれ」にはしみじみとした哀愁を帯びた情緒・感傷、儚い生の無常観が内包されている。事物は常では無いという思考の根幹に変化を定置していることは重要である。さらに、鴨長明(1155頃~1216年)は『方丈記』で「おのづから」、「みづから」、「身づから」(岩波文庫、1928年、p.63、pp.67-73)という表現で、無常観に無為自然を加味している。これらは日本的な自由の原型であると、私は捉える。
3)世阿弥の「花」と「弓矢の道」―鴨長明から宮本武蔵への連結として―
室町・南北朝時代という公家から武家への権力の構造的転換期において、世阿弥(1363?~1443年9月1日)は 「住する所なきを、先ず、花と知るべし」(『風姿花伝・別紙口伝』)と、常など無きことに「花」を認識した。
それは事物を動態において捉える認識論である。「序破急」は(『風姿花伝・第三問答條々』等)、ヘーゲル的なテーゼ~アンチテーゼ~ジンテーゼに比肩できる。それは千利休により「守破離」へと継承・発展した。
また「道を嗜み、芸を重んずる所、私なくば(私心をなくせば)、などかその徳を得ざらん」、「信あらば徳あるべし」(『風姿花伝』第五奥儀讃歎云、及び別紙口伝)と説かれているとおり、それは能という舞台芸術だけに止まらず、芸の道から人の道(人道)に及ぶ実践倫理となっている。
「柔らかなれば、おのづから」や「柔らかなる心」という表現もあり(『風姿花伝』第六花修云、及び別紙口伝)、「おのづから」は『方丈記』で使われており、「柔らか」は後述する『五輪書』に認められる。この点で世阿弥は鴨長明から宮本武蔵への思想史的な連結に位置づけることができる。
そして、生涯学習に即してみれば「初心(を)忘るべからず」と「命には終わりあり、能には果てあるべからず」(『花鏡』結び等)を挙げることができる。「果て」がないことは無常観が無限の認識に発展したことを示しており、パスカルの「人間が無限に人間を超えることを学べ」*1に通じ、しかも先駆している。
さらに、世阿弥の「花」には公家の「あはれ」や無常には括りきれない武家の闘志もある。彼は『風姿花伝・別紙口伝』で、次のように述べる。
秘する花を知る事。秘すれば花、秘せねば花なるべからず、となり。
(略)
人の心に思いも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり。
例えば、弓矢の道の手立にも、名将の案・計(はか)らいにて、思いの外なる手立にて、強敵にも勝つ事あり。(略)人に油断させて勝つ事を得るは、珍しき理(ことわり)の大用なるにてはあらずや。さるほどに、我が(家)の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。
「弓矢の道」はまさに武家の「道」であり、その後の武士道へと続くものである。
そこでは勝つか負けるか決死の戦いを為さねばならず、厳粛に実力が問われる。しかも、自分の手の内(作戦)を見破られてはならず、だからこそ「秘すれば花」なのである。
それ故、世阿弥は「一代一人の相伝なり。たとえ、一子たりと云うとも、無器量の者には伝うべからず。『家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす』と云えり。これ萬徳了達の妙花を極むる所なるべし。」とも説く(『風姿花伝・別紙口伝』)。
重要な機密情報は公開せず一子相伝とする。しかし、その「一子」は実子に限らない。器量=実力のない者には伝えない。
前近代的血統主義を超えた近代的能力主義の先駆と言える。「家」には家父長的観念が付きまとっているが、それに制約されず、近代的な企業の性質もある。養子の活用による「家」の存続は、所有者と経営者の役割分担に通じる。
この脈絡で「用」の観念をみると、世阿弥は「能に、萬ず用心を持つべき」、「用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。……時に用ゆるをもて、花と知るべし」と説いている(『風姿花伝・別紙口伝』)。私は「用」はプラグマティズムの効果に通じると捉える。実際に現れた事物を通して本質を見極めて臨機応変に実践する。このような意味で「花」や「用」は現象学的な「現象」の認識論に匹敵する。「離見の見」(『花鏡』)は、「離見の見」を「見」と見なせば“「離見の見」の見”が導き出され、それを無限に進めることを想定すれば超越に到る。それは超越論的還元や現象学的還元(超越論的還元の超越と還元)に相同であるばかりか、しかも実践的である。
「止観」を踏まえれば「離見」は「エポケー(判断一時停止)」と比較できる。肝要なのは判断停止は一時的で、回避し続けてはならず、そのため私は「判断停止」に「一時」を加える。それには、往々にして現象する判断回避のために「エポケー」が使われ、ただ批判を出すだけで自分の見解を出さないことへの批判を込めている。
「離見」を「エポケー」とすれば「離見の見」は「エポケー」の乗り越えである。「離見の見」を現象学的還元に優るとも劣らないと評価する所以である。
このような次元・境地に達することで、自分を自ずから自由自在に為すこと(能では演舞)を、世阿弥は伝えたのである。
4)武蔵の「自由」と「兵法」
「自由」について、兵法(剣法より広義)のみならず、芸術や思想でも卓越していた*1宮本武蔵(1584(天正12)年?~1645(正保2)年)は『五輪書』で述べている。即ち、freedomやlibertyなど知る前から、日本では「自由」が論じられていた(武蔵が西洋の言語や思想を学んだことは確認されていない)。
武蔵は「地の巻」において、地水火風空の全五巻を概観する中で「水の巻」に言及し「剣術一通の理、さだかに見わけ、一人の敵に自由に勝時は、世界の人に皆勝所也」と述べる(岩波文庫版、1942年、p.13)。「一人」と「世界の人」を強引に結びつけるのではなく、西田幾多郎・三木清の「一即多、多即一」の弁証法に通じる実戦/実戦的認識論であり、彼は「合戦の道、一人と一人の戦いも、萬と萬とのたたかいも同じ道なり」とも記している(p.14)。実際、彼は六十余の勝負で全て勝利したと伝えられており、その実戦/実践が実証となっている。
当時の「剣術」や「兵法」はその後の剣法と異なり必ずしも一対一の果たし合いではなく、複数の戦闘も含まれていた。だからこそ「剣術一通」と「合戦の道」が同じ観点で論じられているのである。
その中で「自由」が明記されている。武蔵はまた「兵法の道におのれ(と)自由ありておのれと奇特を得、時にあいては拍子を知り、おのずから打ち、おのずからあたる、これみな空の道なり。おのれと實の道に入事を、空の巻にして書とゞむるもの也」と述べる(p.15)。
「地の巻」の結びに向かう文章では「鍛錬をもって惣体自由なれば、身にても人に勝ち、又此道にも馴たる心なれば、心をもっても人に勝」と、「水の巻」では「太刀の道を覚えて惣體自由(ヤハラカ)になり(略)一人にかち、二人にかち、兵法の善悪をしる程になり」と、「火の巻」では「朝鍛夕錬して、みがきおほせて後、獨自由を得」と「自由」を繰り返し述べ、その中では「ヤハラカ」と読ませている(p.22、pp.44-45、p.49)。それは実践的身心論の先駆と言える。
それは実戦・実践的である故に先知であり、後知恵ではない。武蔵は「先をと」ることを強調し、「先」について三つに分けて説明している(p.42、p.50)。それは勝つためには先、先の先、後の先等々と読みとらねばならないからである。平和的な関係であれば相互作用ですむが、闘争的であればそれを踏まえて戦略的にならねばならない。
敵も先をとろうとし、そのために作戦を練り、またフェイント等で惑わす。たとえ、先をとっても、それで勝って終えなければ、敵は返す。その返すのを「先」とすれば、そのさらに「先」を読み=先の先、また、その先に応じ=後の先等々と常に先をとらねばならない。そのためには敵の心理を洞察しなければならない。
武蔵は「敵になると云事」を説く(p.56)。これは「離見の見」の展開と言える。
また彼は「目に見えぬをさとってしる」、また「かげをうごかす」、「かげをおさゆると云事」と、不可視の洞察を提起する(p.21、pp.57-58)。
さらに彼は「空の巻」で「ある所をしりてなき所をしる、是則空也」、「直なる所を本とし、實の心を道として、兵法を廣くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとって、空を道として道を空と見る所也、/空有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也」と結ぶ(pp.86-87)。
これが「般若心経」の「色即是空空即是色」に適合的か否かは、そういう詮索が好きな者に任せる。私は武蔵が実戦/実践を通してこの段階・境地に到達したことを高く評価する。
このような実践倫理や認識に基づく戦・闘いと自由の思想はゲーテやフレイレと比肩でき、しかも先行していた。
5)武士道における「自由」と死
徳川幕藩体制における太平の世(謂わばパックス・トクガワ)において、武士には「殺人刀(せつにんとう)」ではなく「活人剣(かつにんけん)」が求められるようになった(これらと禅問答との関連は、そのような詮索が好きな者に任せる)。実際『葉隠』(江戸時代中期、1716年ごろ、肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝、田代陣基)では、他者の殺人ではなく、己の死が説かれている。その「聞書第一」では「油断」を戒めた後に、以下のように記されている。
武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也。別に仔細なし。胸据わって進む也。圖に當たらぬは犬死などといふ事は上方風の打上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて圖に當たるやうにわかることは及ばざる事也。我人、生くる方が好き也。多分好きの方に理が附くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜け也。この境危ふき也。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違也。恥にはならず。これが武道に丈夫也。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果すべき也。
具象的ばかりか庶民的な表現だが、その本質は重要であり、決して軽視すべきではない。「常住死身になりて居る時は、武道に自由を得」は、ソクラテスの哲学に照応できる。
ソクラテスは「弁明」28D-29Aで自分が「配置」された場で死を恐れず、「まず恥を知」り、「わたし自身でも、他の人でも、誰でもよくしらべて、知を愛し求めながら、生きていかねばならない」と述べた*1。また「パイドーン」67Eでは「真の哲学者が死ぬことを心がけているものであり、彼らが何びとよりも死を恐れないものであるということは本当なのだ」と、同80E-81Aでは「魂が清浄な状態で肉体を離れる」ように「練習」することが「真に哲学すること」であり、これは「真の意味で平然として死ぬことを練習することにほかなら」ず、それはまた「死の練習」であると記されている*2。
これはヘレニズムに属するが、ヘブライズムでも聖書「ヨハネ福音書」12章24-25章で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と述べられ、これは「一粒の麦」の喩えとして廣く知られている。
さらに近代、アメリカ独立戦争においてパトリック・ヘンリーが発した「自由を与えよ、然らずんば死を!(give me liberty or give me death!)」は歴史に刻まれ、その後もレジスタンスなどで叫ばれた。
また、先述の「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也」は、「狭き門より入れ(略)命に到る門は狭」いに類比できる(「マタイ伝」第7章13-14節)。
「犬死氣違」よりも「腰抜け」を「恥」じよという点では、ガンディーの「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。(中略)けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦(ゆる)すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕は武人を飾る」を踏まえて理解すべきである*3。
当時は前近代の戦う時代であり、それを避けることは極めて困難であった。不殺生の仏教でも僧兵がいた(愛を説くキリスト教でも騎士修道会が存在)。
そのような世界の内に存在せざるを得ない者として、人を活かす剣が求められた。それは、人の道に外れるような暴力に対して用いられる。
それでは人の道とは何か、誰がどのように決めるのかなど議論が出るだろうが、それは議論ができる平和で安全な世界の内に存在する者の課題である。
確かに、人を活かす剣には絶対的な矛盾が付きまとう、それを突破しようという気概こそ重要である。
先にヘレニズムやヘブライズムとの対比について述べたが、より直接的にはオイゲン・ヘリゲルが弓道に即して「非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死をも、また意識しながら死んで行くことも、沈思そのものに対するように少しも恐れないあの自若とした落着きを生み出す。……ここにかの武士道精神の根源がある」と述べている*1。そして、オットー・ボルノーはこれに言及し「われわれドイツ人は、練習するということが日本の文化のなかで最高の宗教的領域にまで入りこんでもっている偉大な意味を知ってい」ると評価している*2。決して武士道は日本の枠内に止まっていないのである。
だからこそ、内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄などがキリスト者の立場にあってもなお武士道を論じたのである。そこには国境を超える普遍的なポテンシャリティがある。そして彼らは文人で武士道を近代において論じたが、山田良政・純三郎兄弟は武人として身を以て異国(中国)で武士道を実践した。
これまで私は『平和教育の思想と実践』や『「わだつみのこえ」に耳を澄ます―五十嵐顕の思想・詩想と実践』などで新渡戸~矢内原~宮原~五十嵐という系譜で武士道に論及してきたが、この研究をさらに進める所存である。
6)現代への継承・展開
「花」では「秘すれば花」は日常的にも使われている。「花よりも、花を咲かせる土になれ」(山下智茂星稜高野球部元監督)は「花」の否定ではなく、その展開と言える。
「心」では、武蔵の「心は空也」は世阿弥や「用心」を踏まえて理解すべきである。「心」を「空」にすることは思い込みを排し、想定外の事態にも臨機応変に即できるようにするためである。
それは「残心(残身や残芯)」として継承・展開されたとも言える。即ち、勝利した後、相手の反撃に油断せず(審判のいるスポーツではない)、注意のため「心」を「残」す。最後の最後まで「油断」しない。
道歌「折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ」は芸道から歌道、書道、華道、茶道などの美意識や禅の修行などでも引かれてきた。
この文脈で、吉田兼好(1283(弘安6)年頃?~1352(文和元年/正平7)年以後?)の『徒然草』第一〇九段「高名の木登り」を読むことができる。
それは「一所懸命」に集中しても無我夢中にならないことの戒めになる。我を忘れることは心を空にすることではない。それは障害となる雑念などを一掃した澄みきった心と言える。
元来「一所懸命」であったが、「一生懸命」も生成し、むしろこれが多用されるようになった。しかし「一所」に「命」を「懸」けることも忘れてはならない。それは「一期一会」(千利休)に通じ、さらには「一球入魂」などで展開されているからである。
「一所」は空間で、「一期」は時間であることから、それらを時空間的な「現存在」(カント、フッサール、ハイデガーたち)に集約させることができる。これを以て私は「一所懸命」の積み重ねが「一生懸命」になると考える。そしてこれを生涯学習の根幹に位置づけ、それを進めるのが社会教育の役割と規定する。
そして、改めて振り返れば、世阿弥の「信あらば徳あるべし」や「能には果てあるべからず」に加えて、武蔵では「我が一流において、太刀に奥口(奥義と入門)なし。構えに極まりなし。ただ心をもって、その徳をわきまゆること、これ兵法の肝心なり。」(『五輪書』風之巻の結び)がある。
そして先に引いた「太刀の道を覚えて惣體自由(ヤハラカ)になり」に続けて、武蔵は「けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝とおも」うことを説く(p.45)。美空ひばりはこれを承けて「昨日の己(我)に今日は勝つ」として座右の銘とし、それが語り継がれている。即ち、それらは現代でも意義を有している。
平和な時代であっても自由競争があるだけでなく、己に克つことが求められる。このように勝負を懸ける修練により獲得する「自由」は無為自然の逍遥とは質的に異なる。むしろ「真理」や「必然性」を探究し、悟る「自由」と通じあう。
『荘子』「逍遙游」第一では「游無窮者……至人無己、神人無功、聖人無名」と「無窮」に「游」することにおいて自我も功名も「無」いと述べられている。これは超越というより解脱と言える。それは西洋近代の「自由」に類似するが*1、自己の自由と他者の自由の矛盾や共存という緊張関係を避け、「逍遙」を志向するという特質がうかがえる。
それでは緊張のない伸び伸びとした社会なのかといえば、むしろ、東洋的専制の帝国が形態を変えて再生産されてきたのが現実である。マクロ的な観点からみれば、現在の中国共産党独裁体制も東洋的専制の一形態と捉えることができる。
このような歴史を通して帝王と奴才*2・奴隷の組み合わせが強固に構造化され、再生産し続け、アジア的停滞をもたらした。この点は「限界状況におけるアイデンティティ・クライシスの心理歴史的研究(Ⅰ~Ⅲ)」(『社会教育学研究』第46-48号、2019年10-11月)で、慰安婦と兵士の愛と死の研究の前提的考察において論証したので繰り返さない。
②日本
1)マージナリティ
広大な帝国から離れたマージナルな位置にある日本は、東洋的専制を免れてきたと言える。この地政学的な位置と意義は、現在、香港や台湾が中国共産党独裁体制を拒否することにも通じる。
このような視座から、日本における自由の精神や思想の歴史について概観していく。
無論、過大評価をもたらす偏狭な民族主義に注意すべきだが、民族としてのアイデンティティは大切にしなければならない。それがなければ根無し草(デラシネ)になる。
2)「あはれ」~「みづから」―常ではない世界において―
平安文学の「あはれ」にはしみじみとした哀愁を帯びた情緒・感傷、儚い生の無常観が内包されている。事物は常では無いという思考の根幹に変化を定置していることは重要である。さらに、鴨長明(1155頃~1216年)は『方丈記』で「おのづから」、「みづから」、「身づから」(岩波文庫、1928年、p.63、pp.67-73)という表現で、無常観に無為自然を加味している。これらは日本的な自由の原型であると、私は捉える。
3)世阿弥の「花」と「弓矢の道」―鴨長明から宮本武蔵への連結として―
室町・南北朝時代という公家から武家への権力の構造的転換期において、世阿弥(1363?~1443年9月1日)は 「住する所なきを、先ず、花と知るべし」(『風姿花伝・別紙口伝』)と、常など無きことに「花」を認識した。
それは事物を動態において捉える認識論である。「序破急」は(『風姿花伝・第三問答條々』等)、ヘーゲル的なテーゼ~アンチテーゼ~ジンテーゼに比肩できる。それは千利休により「守破離」へと継承・発展した。
また「道を嗜み、芸を重んずる所、私なくば(私心をなくせば)、などかその徳を得ざらん」、「信あらば徳あるべし」(『風姿花伝』第五奥儀讃歎云、及び別紙口伝)と説かれているとおり、それは能という舞台芸術だけに止まらず、芸の道から人の道(人道)に及ぶ実践倫理となっている。
「柔らかなれば、おのづから」や「柔らかなる心」という表現もあり(『風姿花伝』第六花修云、及び別紙口伝)、「おのづから」は『方丈記』で使われており、「柔らか」は後述する『五輪書』に認められる。この点で世阿弥は鴨長明から宮本武蔵への思想史的な連結に位置づけることができる。
そして、生涯学習に即してみれば「初心(を)忘るべからず」と「命には終わりあり、能には果てあるべからず」(『花鏡』結び等)を挙げることができる。「果て」がないことは無常観が無限の認識に発展したことを示しており、パスカルの「人間が無限に人間を超えることを学べ」*1に通じ、しかも先駆している。
さらに、世阿弥の「花」には公家の「あはれ」や無常には括りきれない武家の闘志もある。彼は『風姿花伝・別紙口伝』で、次のように述べる。
秘する花を知る事。秘すれば花、秘せねば花なるべからず、となり。
(略)
人の心に思いも寄らぬ感を催す手立、これ、花なり。
例えば、弓矢の道の手立にも、名将の案・計(はか)らいにて、思いの外なる手立にて、強敵にも勝つ事あり。(略)人に油断させて勝つ事を得るは、珍しき理(ことわり)の大用なるにてはあらずや。さるほどに、我が(家)の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。
「弓矢の道」はまさに武家の「道」であり、その後の武士道へと続くものである。
そこでは勝つか負けるか決死の戦いを為さねばならず、厳粛に実力が問われる。しかも、自分の手の内(作戦)を見破られてはならず、だからこそ「秘すれば花」なのである。
それ故、世阿弥は「一代一人の相伝なり。たとえ、一子たりと云うとも、無器量の者には伝うべからず。『家にあらず。次ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもて人とす』と云えり。これ萬徳了達の妙花を極むる所なるべし。」とも説く(『風姿花伝・別紙口伝』)。
重要な機密情報は公開せず一子相伝とする。しかし、その「一子」は実子に限らない。器量=実力のない者には伝えない。
前近代的血統主義を超えた近代的能力主義の先駆と言える。「家」には家父長的観念が付きまとっているが、それに制約されず、近代的な企業の性質もある。養子の活用による「家」の存続は、所有者と経営者の役割分担に通じる。
この脈絡で「用」の観念をみると、世阿弥は「能に、萬ず用心を持つべき」、「用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす。……時に用ゆるをもて、花と知るべし」と説いている(『風姿花伝・別紙口伝』)。私は「用」はプラグマティズムの効果に通じると捉える。実際に現れた事物を通して本質を見極めて臨機応変に実践する。このような意味で「花」や「用」は現象学的な「現象」の認識論に匹敵する。「離見の見」(『花鏡』)は、「離見の見」を「見」と見なせば“「離見の見」の見”が導き出され、それを無限に進めることを想定すれば超越に到る。それは超越論的還元や現象学的還元(超越論的還元の超越と還元)に相同であるばかりか、しかも実践的である。
「止観」を踏まえれば「離見」は「エポケー(判断一時停止)」と比較できる。肝要なのは判断停止は一時的で、回避し続けてはならず、そのため私は「判断停止」に「一時」を加える。それには、往々にして現象する判断回避のために「エポケー」が使われ、ただ批判を出すだけで自分の見解を出さないことへの批判を込めている。
「離見」を「エポケー」とすれば「離見の見」は「エポケー」の乗り越えである。「離見の見」を現象学的還元に優るとも劣らないと評価する所以である。
このような次元・境地に達することで、自分を自ずから自由自在に為すこと(能では演舞)を、世阿弥は伝えたのである。
4)武蔵の「自由」と「兵法」
「自由」について、兵法(剣法より広義)のみならず、芸術や思想でも卓越していた*1宮本武蔵(1584(天正12)年?~1645(正保2)年)は『五輪書』で述べている。即ち、freedomやlibertyなど知る前から、日本では「自由」が論じられていた(武蔵が西洋の言語や思想を学んだことは確認されていない)。
武蔵は「地の巻」において、地水火風空の全五巻を概観する中で「水の巻」に言及し「剣術一通の理、さだかに見わけ、一人の敵に自由に勝時は、世界の人に皆勝所也」と述べる(岩波文庫版、1942年、p.13)。「一人」と「世界の人」を強引に結びつけるのではなく、西田幾多郎・三木清の「一即多、多即一」の弁証法に通じる実戦/実戦的認識論であり、彼は「合戦の道、一人と一人の戦いも、萬と萬とのたたかいも同じ道なり」とも記している(p.14)。実際、彼は六十余の勝負で全て勝利したと伝えられており、その実戦/実践が実証となっている。
当時の「剣術」や「兵法」はその後の剣法と異なり必ずしも一対一の果たし合いではなく、複数の戦闘も含まれていた。だからこそ「剣術一通」と「合戦の道」が同じ観点で論じられているのである。
その中で「自由」が明記されている。武蔵はまた「兵法の道におのれ(と)自由ありておのれと奇特を得、時にあいては拍子を知り、おのずから打ち、おのずからあたる、これみな空の道なり。おのれと實の道に入事を、空の巻にして書とゞむるもの也」と述べる(p.15)。
「地の巻」の結びに向かう文章では「鍛錬をもって惣体自由なれば、身にても人に勝ち、又此道にも馴たる心なれば、心をもっても人に勝」と、「水の巻」では「太刀の道を覚えて惣體自由(ヤハラカ)になり(略)一人にかち、二人にかち、兵法の善悪をしる程になり」と、「火の巻」では「朝鍛夕錬して、みがきおほせて後、獨自由を得」と「自由」を繰り返し述べ、その中では「ヤハラカ」と読ませている(p.22、pp.44-45、p.49)。それは実践的身心論の先駆と言える。
それは実戦・実践的である故に先知であり、後知恵ではない。武蔵は「先をと」ることを強調し、「先」について三つに分けて説明している(p.42、p.50)。それは勝つためには先、先の先、後の先等々と読みとらねばならないからである。平和的な関係であれば相互作用ですむが、闘争的であればそれを踏まえて戦略的にならねばならない。
敵も先をとろうとし、そのために作戦を練り、またフェイント等で惑わす。たとえ、先をとっても、それで勝って終えなければ、敵は返す。その返すのを「先」とすれば、そのさらに「先」を読み=先の先、また、その先に応じ=後の先等々と常に先をとらねばならない。そのためには敵の心理を洞察しなければならない。
武蔵は「敵になると云事」を説く(p.56)。これは「離見の見」の展開と言える。
また彼は「目に見えぬをさとってしる」、また「かげをうごかす」、「かげをおさゆると云事」と、不可視の洞察を提起する(p.21、pp.57-58)。
さらに彼は「空の巻」で「ある所をしりてなき所をしる、是則空也」、「直なる所を本とし、實の心を道として、兵法を廣くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとって、空を道として道を空と見る所也、/空有善無悪、智は有也、利は有也、道は有也、心は空也」と結ぶ(pp.86-87)。
これが「般若心経」の「色即是空空即是色」に適合的か否かは、そういう詮索が好きな者に任せる。私は武蔵が実戦/実践を通してこの段階・境地に到達したことを高く評価する。
このような実践倫理や認識に基づく戦・闘いと自由の思想はゲーテやフレイレと比肩でき、しかも先行していた。
5)武士道における「自由」と死
徳川幕藩体制における太平の世(謂わばパックス・トクガワ)において、武士には「殺人刀(せつにんとう)」ではなく「活人剣(かつにんけん)」が求められるようになった(これらと禅問答との関連は、そのような詮索が好きな者に任せる)。実際『葉隠』(江戸時代中期、1716年ごろ、肥前国佐賀鍋島藩藩士・山本常朝、田代陣基)では、他者の殺人ではなく、己の死が説かれている。その「聞書第一」では「油断」を戒めた後に、以下のように記されている。
武士道といふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也。別に仔細なし。胸据わって進む也。圖に當たらぬは犬死などといふ事は上方風の打上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて圖に當たるやうにわかることは及ばざる事也。我人、生くる方が好き也。多分好きの方に理が附くべし。若し圖にはづれて生きたらば、腰抜け也。この境危ふき也。圖にはづれて死にたらば、犬死氣違也。恥にはならず。これが武道に丈夫也。毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果すべき也。
具象的ばかりか庶民的な表現だが、その本質は重要であり、決して軽視すべきではない。「常住死身になりて居る時は、武道に自由を得」は、ソクラテスの哲学に照応できる。
ソクラテスは「弁明」28D-29Aで自分が「配置」された場で死を恐れず、「まず恥を知」り、「わたし自身でも、他の人でも、誰でもよくしらべて、知を愛し求めながら、生きていかねばならない」と述べた*1。また「パイドーン」67Eでは「真の哲学者が死ぬことを心がけているものであり、彼らが何びとよりも死を恐れないものであるということは本当なのだ」と、同80E-81Aでは「魂が清浄な状態で肉体を離れる」ように「練習」することが「真に哲学すること」であり、これは「真の意味で平然として死ぬことを練習することにほかなら」ず、それはまた「死の練習」であると記されている*2。
これはヘレニズムに属するが、ヘブライズムでも聖書「ヨハネ福音書」12章24-25章で「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と述べられ、これは「一粒の麦」の喩えとして廣く知られている。
さらに近代、アメリカ独立戦争においてパトリック・ヘンリーが発した「自由を与えよ、然らずんば死を!(give me liberty or give me death!)」は歴史に刻まれ、その後もレジスタンスなどで叫ばれた。
また、先述の「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかり也」は、「狭き門より入れ(略)命に到る門は狭」いに類比できる(「マタイ伝」第7章13-14節)。
「犬死氣違」よりも「腰抜け」を「恥」じよという点では、ガンディーの「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。(中略)けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦(ゆる)すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕は武人を飾る」を踏まえて理解すべきである*3。
当時は前近代の戦う時代であり、それを避けることは極めて困難であった。不殺生の仏教でも僧兵がいた(愛を説くキリスト教でも騎士修道会が存在)。
そのような世界の内に存在せざるを得ない者として、人を活かす剣が求められた。それは、人の道に外れるような暴力に対して用いられる。
それでは人の道とは何か、誰がどのように決めるのかなど議論が出るだろうが、それは議論ができる平和で安全な世界の内に存在する者の課題である。
確かに、人を活かす剣には絶対的な矛盾が付きまとう、それを突破しようという気概こそ重要である。
先にヘレニズムやヘブライズムとの対比について述べたが、より直接的にはオイゲン・ヘリゲルが弓道に即して「非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死をも、また意識しながら死んで行くことも、沈思そのものに対するように少しも恐れないあの自若とした落着きを生み出す。……ここにかの武士道精神の根源がある」と述べている*1。そして、オットー・ボルノーはこれに言及し「われわれドイツ人は、練習するということが日本の文化のなかで最高の宗教的領域にまで入りこんでもっている偉大な意味を知ってい」ると評価している*2。決して武士道は日本の枠内に止まっていないのである。
だからこそ、内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄などがキリスト者の立場にあってもなお武士道を論じたのである。そこには国境を超える普遍的なポテンシャリティがある。そして彼らは文人で武士道を近代において論じたが、山田良政・純三郎兄弟は武人として身を以て異国(中国)で武士道を実践した。
これまで私は『平和教育の思想と実践』や『「わだつみのこえ」に耳を澄ます―五十嵐顕の思想・詩想と実践』などで新渡戸~矢内原~宮原~五十嵐という系譜で武士道に論及してきたが、この研究をさらに進める所存である。
6)現代への継承・展開
「花」では「秘すれば花」は日常的にも使われている。「花よりも、花を咲かせる土になれ」(山下智茂星稜高野球部元監督)は「花」の否定ではなく、その展開と言える。
「心」では、武蔵の「心は空也」は世阿弥や「用心」を踏まえて理解すべきである。「心」を「空」にすることは思い込みを排し、想定外の事態にも臨機応変に即できるようにするためである。
それは「残心(残身や残芯)」として継承・展開されたとも言える。即ち、勝利した後、相手の反撃に油断せず(審判のいるスポーツではない)、注意のため「心」を「残」す。最後の最後まで「油断」しない。
道歌「折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ」は芸道から歌道、書道、華道、茶道などの美意識や禅の修行などでも引かれてきた。
この文脈で、吉田兼好(1283(弘安6)年頃?~1352(文和元年/正平7)年以後?)の『徒然草』第一〇九段「高名の木登り」を読むことができる。
それは「一所懸命」に集中しても無我夢中にならないことの戒めになる。我を忘れることは心を空にすることではない。それは障害となる雑念などを一掃した澄みきった心と言える。
元来「一所懸命」であったが、「一生懸命」も生成し、むしろこれが多用されるようになった。しかし「一所」に「命」を「懸」けることも忘れてはならない。それは「一期一会」(千利休)に通じ、さらには「一球入魂」などで展開されているからである。
「一所」は空間で、「一期」は時間であることから、それらを時空間的な「現存在」(カント、フッサール、ハイデガーたち)に集約させることができる。これを以て私は「一所懸命」の積み重ねが「一生懸命」になると考える。そしてこれを生涯学習の根幹に位置づけ、それを進めるのが社会教育の役割と規定する。
そして、改めて振り返れば、世阿弥の「信あらば徳あるべし」や「能には果てあるべからず」に加えて、武蔵では「我が一流において、太刀に奥口(奥義と入門)なし。構えに極まりなし。ただ心をもって、その徳をわきまゆること、これ兵法の肝心なり。」(『五輪書』風之巻の結び)がある。
そして先に引いた「太刀の道を覚えて惣體自由(ヤハラカ)になり」に続けて、武蔵は「けふはきのふの我にかち、あすは下手にかち、後は上手に勝とおも」うことを説く(p.45)。美空ひばりはこれを承けて「昨日の己(我)に今日は勝つ」として座右の銘とし、それが語り継がれている。即ち、それらは現代でも意義を有している。
平和な時代であっても自由競争があるだけでなく、己に克つことが求められる。このように勝負を懸ける修練により獲得する「自由」は無為自然の逍遥とは質的に異なる。むしろ「真理」や「必然性」を探究し、悟る「自由」と通じあう。
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