慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究―第5章第3節その1(2020/6/23)

第三節 田村文学の評価
第一項 プロフィール
 田村は、一九四〇(昭和一五)年一一月、応召により山西に出征し、独立混成第四旅団第一三大隊第四中隊に配属され、陽泉の旅団司令部の宣伝班で軍務に就いた。この第一三大隊は一九四四年八月に第六二師団に編成され、沖縄戦の主力として転進し、全滅したが、田村は中国に残り、生き延び、敗戦、武装解除、収容所生活を経て、一九四六年一月に帰国・復員した。この五年余の体験は戦後の作品に大きく深く影響している。
 当然、戦地では死と隣り合わせであり多くの戦友が戦死した。複数の作品で、部隊が中国・山西から沖縄へと転進し、苛烈な沖縄戦に遭遇するが、自分は中国に残り生きながらえたという記述があり、彼の体験と符合する。「肉体の悪魔」では、所属した「兵団は河南作戦に参加し、洛陽を攻撃し、作戦が終わると、沖縄に転進し」、大陸に残った「私」以外「兵団は全滅」したと書かれている。また「失われた男」では、「自分たちが警備交代した部隊」が、「沖縄で死闘を展開している」、「烈しい死闘がくりひろげられているというニュース」を聞くが、「遠い別世界の噂のように思えた。自分たちの戦場には、格別の変化が起きつつあるとは、そのときは思えなかった」と述べられている。だが、その後、日本は降伏し、「格別」どころか根本的な変化が起きる。
 戦後、田村は「肉体の悪魔」や「肉体の門」など性的刺激のある作品を次々に発表した。その後の女性解放(フェミニズム第二波)に絡む性の解放、フリー・セックスの時流に乗った描写に比べれば刺激は強くないが、山田風太郎は「『肉体』という文字を見ただけでみな昂奮して胴ぶるいした敗戦直後、田村泰次郎は『肉体の門』『肉体の悪魔』その他いわゆる肉体文学で一躍超人気作家となった」と述べるような程であった(『人間臨終図巻』。引用は角川文庫版、中巻、二〇一四年、五〇三~五〇四頁)。

第二項 人格(パーソナリティ)
―「清純」と「雑駁」、「豪放磊落」と「細やかな神経」―
 田村は『春婦傳』の「序」や「自序」のみならず、『男禁制』の「あとがき」でも自分自身を分析しており、「つねにもっと清純な、高い世界に憧れ」ながらも「まるで偏執狂みたいに銀座や、新宿を、だらしない犬のやうにうろついて……都会の雑駁な面ばかり心ひかれる」と述べている(『田村泰次郎選集』第二巻、三五七~三五八頁)。また、田村は、復員後“日本の女には貸しがあると公然と表明した。これは数多く引用され、田村を象徴する言説となった。実際、妻の「美好夫人」は夫について「食いしん坊のうえ、なにしろお風呂が大好きで、昨年夏までは十日にいっぺん、運転手に新宿のストリップ劇場とトルコ風呂に車で連れていってもらっていました。ですから、てっきり主人はそういうところで死ぬと思っていました」と述懐した(『週刊新潮』一九八三年十一月十七日号、一三七頁)。文中の「トルコ風呂」について、一九八三年の時点では性風俗の個室付特殊浴場を指していた(八四年にトルコ人留学生たちの抗議運動で「ソープランド」と改称)。そして、山田風太郎は『人間臨終図巻』でこのエピソードを取りあげ、「風呂が好きだから、トルコ風呂にいくやつはあるまいが」と指摘した(前掲角川文庫版、中巻、五〇三~五〇四頁)。田村の目的は「ストリップ劇場」と密接に関連する性風俗であったと言える。これらから田村は青年期から老年期まで一貫して「雑駁な」性に志向していたことが分かる。
 しかし、これだけでなく、田村には「清純な、高い世界に憧れ」る心性もあり、その矛盾を意識できた。前記『週刊新潮』の記事では作家の井上友一郎の同趣旨の発言も引用されている。さらに井上は「しかし、『肉体の門』が唯一の代表作と見られているのは残念です。もっといいものを書きましても、その『肉体の門』が前面に立ちふさがって、良さが見過ごされている」、「豪放磊落というのは必ずしも誤っていないが、彼には表に出ない細やかな神経の配慮がありました。それで、私は“絶対挫折しないだろう”と見てましたが、これは当たりました。つまり、ドライバーがスピードを出し過ぎても大事故にはならないような配慮が非常に働いていました」とも述べている。田村は性愛を刺激的(当時の倫理や規範のレベルで)に描いても、「清純」との矛盾を自己分析し、それに溺れず、また性風俗施設に通っても依存症になってはいなかったと言える。
 『新潮日本文学辞典』(一九八八年、八一六頁)で、瀬戸内晴美は田村の「日本の女には貸しがある」を「悲痛にして真実のこもった一言」と表現している。ただし、前後の文脈から、その「悲痛にして真実」の意味はエロスに偏し、タナトスが軽視されており、やはり理解が足りず、井上の「残念」が当てはまる一例である。これをより世俗化したのが、田村の文学に「男同士が暗黙のうちに了解しあっている都合のいいリアリティ」があるから「読者に快く支持され」「一躍人気作家になったのだろう」という池田の捉え方である。彼女は田村が「自堕落と甘え」を「得意とする」とも評する(第三節)。
 だが、田村は自分のアイデンティティにおけるこの部分を意識し、分析し、表現し得ている。これは「自堕落と甘え」の部分を乗り越えたことを示しており、だからこそ彼は戦場で生き抜き、戦後も、そのトラウマで精神的に自壊せず、むしろ独創的な文学を創出したのである。従って、池田の評価は一面的であり、やはり彼女の理解不足を露呈している。
 さらに、池田は「田村泰次郎が描いた戦場の性」第四節「性暴力にさらされた中国人女性たち」において「田村泰次郎は女性へのあくなき好奇心と欲望があって、戦場体験を繰り返し表現しようとした作家だった。彼は古くから日本男性にみられる通俗的な女性観や性意識に囚われており、それを相対化することはできなかった」とも評する。「自堕落と甘え」、「女性へのあくなき好奇心と欲望」、「古くから日本男性にみられる通俗的な女性観や性意識」と見なすのは彼女の考えであり、言論の自由に基づきそれを尊重するが、これほど繰り返して他者の性格を断定することで、翻って当人の性格が現象していることを指摘しておく。
 むしろ注目すべきは、朴裕河は次の指摘である。彼女は「強制があったかどうか」以上に「重要な問題」である性差別の重層的な構造(既述)を提起した上で、次のように述べる(『帝国の慰安婦』二一六頁)。

 作家田村泰次郎(一九一一〜一九八三)の小説は、そういったあたりを明瞭に見せてくれている。田村は、一九四〇年に応召して中国北部で兵士として戦争を体験し、その体験に基づいた小説を多く書き残している。たとえば、日中戦争時の戦場が舞台となっている「蝗」(一九六四年発表。「コレクション戦争×文学」7)もそのひとつだ。

 確かに女性差別の歴史的限界のリアリティが「明瞭」に示されており、それを看過してはならない。その上で、私は本源的なエロスとタナトスの絡みあいにも迫っていると捉える(先述のローレンツたちが析出した攻撃と性の連合・複合も参考)。それは、田村が「つねにもっと清純な、高い世界に憧れ」続けていた要素をも有していたからであった。「雑駁な」性格だけでは問題を問題として意識化できない。これもあるが、それと対極的な性格もあり、その矛盾した複合的特性が戦場の性愛を深層まで探索し、描き出せたのである。矛盾は発展の契機(モメント)であり、田村はそれを文学で実践した。そのような人格の故に、性愛をめぐる体験や見聞(追体験)を文学作品に昇華できた。謂わば、戦場の性愛の本質を察知できる高度なセンサーや情報処理装置を田村は備えていた。即ち、余人では感得できず、またできても表現し得ないことを田村は為し得た。ここに田村の文学の意義がある。

第三項 「肉体文学」の意味
(一)計り知れない「闇」の深さ
 田村の文学は「肉体文学」と呼ばれ、彼自身もこれを明確に拒まなかった。しかし、異論もある。秦昌弘は『肉体の悪魔・失われた男』(講談社文芸文庫、二〇〇六年)の解説で「肉体文学」として「多くの読者を得たものの、理解されることが少なかった」と書き出し、「復員兵が抱いた『闇』の深さは計り知れない」と結んでいる(二八三頁、三〇一頁)。秦は、そのことを田村がどこまで意識していたかは不明であり、「『闇』をとらえたくないという意識が無意識に働いていたのではないだろうか」と問いかけている(同頁)。これに対して、田村は「『闇』をとらえたくないという」思いと格闘しながら、戦場の現実、声なき声を伝えねばならないというパトスに導かれ、余りにも奥深く凄惨な「闇」を文学的に表現したと私は捉える。実際、田村自身が『春婦傳』(東方社版、一九六五年)の「自序」で「一種狂熱につかれたような状態で」と述べている(頁数が始まる目次より前)。これを彼が「狂熱につかれた」と捉えるのは浅薄である。確かにそうであったが、さらにそれを感得し、意識化し、文章化できるだけ冷静で理性的であった。
 これは、元将兵の多くが戦争体験を語らない/語れないことを考えると極めて貴重である。その体験は余りにも凄絶でトラウマは重篤であるため言葉に表し難い。たとえ表せても分かってもらないから話さない。そう思うが、つい話してしまう。だが、やはり分かってもらえず、さらに傷つく。このような心理機制を認識するためには、表現・現象し得ない深層を洞察できるだけの力量が求められる。田村はそれを為し得て活写しており、これは学術的な形式は整っているが陳腐で凡庸な論文よりはるかに貴重である。これによりデモーニッシュな「闇」を超克し得ている(だからこそ読み継がれている)。
 また、田村の文学は欧米文学を基盤としており、それを中国や日本を舞台に展開したとも言える。尾西は、田村がヘミングウェイから「強い影響を受けていた」、「公言することはなかったが、泰次郎はヘミングウェイの文学を最も深い次元で継承した日本人作家の一人であった」と評価する(『田村泰次郎の戦争文学』一七五頁。尾西「田村泰次郎研究(3)「蝗」論」三重大学日本語学文学会編『三重大学日本語学文学』二〇〇七年、八七~九五頁も参照)。
 そして私はフロイト的な観点から、田村はヘミングウェイに優るとも劣らないと評価する。「肉体」、そして性愛が田村の文学では大きな位置を占めているが、人間の置かれた状況によっては、この方がリアリティがあるとも言える。性愛は恥と密接に関連するため不可視の領域に秘められやすいが、これは却って人間の深層・内奥の営為であり、田村はこれに迫っていると捉えることができる。
 田村の代表作の表題がレイモン・ラディゲ処女作かつ代表作の『肉体の悪魔』(Le diable au corps, 1923)と同じなのは偶然ではなく、それを意識して戦争体験を自己分析し、さらに表現し得ている。それは人間の存在のデモーニッシュな深層に迫っている。尾西は「肉体の悪魔」の草稿において聖書「ヘブル人への書」十二章四節を典拠とする「汝らは血を流すまで抵抗(てむかい)しことなし」が「文語体のプロローグ」として記されていたが「浄書以降消去され」たことを明らかにした(『田村泰次郎の戦争文学』一五一~一五二頁)。なお、文語訳聖書(日本聖書協会、二〇〇一年)では「汝らは罪と闘ひて未だ血を流すまで抵抗しことなし」と記されている。さらに「肉体の悪魔」には、キリストの十字架刑による死と復活が「肉体の悪魔」を滅ぼし、永遠の命を与えるという意味が内包されていることを、尾西はラディゲの『肉体の悪魔』に基づいて論じている(一五二頁)。
 フランス文学の影響に関していえば、田村は「昭和初期の早稲田時代」に同人誌「東京派」第三号で「若き仏蘭西文学号」の特集を組み、またアラゴンの『フランスの起床ラッパ』を翻訳した大島博光たちと「仲間」であったと紅野敏郎は述べている(「志賀直哉宛署名本(33)田村泰次郎の『蝗』」『日本古書通信』第八六六号、二〇〇一年九月、二二~二三頁。以下同様)。彼はまた、田村が「初期は、前衛的なヨーロッパ文学の影響を受けながらも、『都会の野性派』としての庶民的な行動力があり、観念よりも肉体を重視した点では、志賀と重なるところも見られる」と評している。これも田村文学における「肉体」の意味の深さや重さ、そして広さを思わしめる。
 中国の戦場における日本兵と中国人(広義の慰安婦)の愛をモチーフにした「肉体の悪魔」と戦後日本の私娼(街娼)たちを描いた「肉体の門」は、一九四五年八月一五日の前と後、中国内陸部と日本首都のように時間(時代)も空間(社会)も大きくことなるが、「肉体」では一貫している。これは激変した歴史(時空間)を統合して捉え、さらに表現し得たことを証明している。田村の「肉体」は、認識論的にいえば、そのような水準の概念である。

(二)デモーニッシュなエロスとタナトスを乗り越える愛―人間としての苦闘―
 田村の「肉体文学」は、慎重に多角的に評価しなければならない。“肉体の解放こそ人間の解放だ”という文学論は真摯な考究に値する。
 田村は中国に身を置き、戦争という限界状況(極限状況)で中国人との性愛を体験し、その経験を踏まえた作品は3Sで利用されたと言える。しかし、その内容には、3Sなど乗り越える文学的なポテンシャリティがあり、これを見過ごしてはならない。即ち、デモーニッシュに絡みあうエロスとタナトスにおいてもなお存在した愛を、田村の作品から読みとることができる。それはまた、限界状況においてさえ愛を求めた慰安婦や兵士の生と死の意味を導き出すことになる。
 これは戦争の美化ではない。戦争を批判する余り、否応なくそれに巻き込まれた者たちを否定的消極的な側面だけで捉えることは一面的である。彼/彼女たちに愛がなかったなどと言うことはできない。非人間的な状況において必死に人間的であろうとした苦闘を析出してこそ、彼/彼女たちの本懐であろう。心理歴史的研究の使命は、ここにある。

第四項 経験論・自己分析(一)
 田村の「肉体文学」は「風俗」小説として受けとられることが多い。さらに映画化された「肉体の門」(日活、一九六四年)は「ピンク映画」として話題になった。「肉体の市場」(協立映画、一九六二年)もあり、まさに山田風太郎のいう「『肉体』という文字を見ただけでみな昂奮して胴ぶるい」(先述)する心性を刺激して興行収入を増そうという戦略において田村の作品は使われた。原作の人間や社会への問題提起など顧みられず、多くは愛慾とそれをめぐる争いに関心を向けていた。
 当時、一九五三年生まれの私は小学生で、発達段階は学童期で、リビドーは潜伏していた。その後、小学校高学年で、憎からぬ女の子と理科室の机の下で足先と足先を触れあうことがあったが、これを意識化できたのは中年を過ぎてからで、当時は無意識的で、性など全く意識していなかった。このような私でさえ、地方の小都市(群馬県桐生市)の街頭に貼られていたポスターを、一緒に歩く親に気づかれないように盗み見していたことが、今でも記憶に残っている。自然とこのポスターに気づいたのではなく、周囲で「ピンク映画」や「肉体」とひそひそと話していたため、意味もよく分からないまま好奇心が刺激され、「罪悪感」を抱きながら盗み見ていたと言える。ポスターには水着のような衣装の女性が描かれ、その体型の輪郭は記憶に残っている。
 それが影響し続け、原作の「肉体の門」を知っても、「ああ、あれか」と先入観で判断して読まなかった。それでも好奇心と慾動から手に取った時があった。だが、読み始めたら、そのデモーニッシュ(悪魔的)で強烈な内容に軽いトラウマさえできた。それ以来、田村の作品には近づかなかった。
 しかし「温故一九四二」を契機に河南の会戦(河南作戦)を研究する中で「蝗」を読まねばならなくなり、責務として田村の作品を読んだ。すると先入観が改まった。成人期になり、デモーニッシュな「肉体文学」でも熟読できるだけの「徳=力(virtue)」を修得でき、これにより田村文学には「暴走するタナトス、グロテスクなエロス」を乗り越える力(potentiality)があることを理解できたと自己分析する。

第五項 田村の力量
(一)「狂熱」の自己分析とエロスとタナトスを具象化した肉体と屍体
 田村は幾つもの作品で慰安婦に重要な位置を与えている。個別的な考察はこれから行い、ここでは田村の力量について述べる。それは自己の「狂熱」を意識し、自己分析する程のレベルである。これについて『春婦傳』の「序」と「自序」に即して述べる。
 『春婦傳』は一九四七年に銀座出版社から刊行され、それには「序」が収められている。これは先述したとおり『田村泰次郎選集』第二巻に再掲されており、また「解題」では『春婦傳』異装版三冊についても説明されている。
 異装版の一つ一九六五年の東方社版では「自序」がある(先述)。「序」と「自序」と、“序”共通でも表題を変えたのは、内容の核心が同じだが、重要な部分で異なるところもあるからである。一九四七年から六五年まで一貫性があるが、その中でも変化があり、この矛盾の止揚に、戦争体験を文学に昇華した田村の力量が読み取れる。
 銀座出版社版の「序」で田村は「自分の肉体のなかに、血と硝煙の匂ひで燻しかためられた、理屈を超えた悲痛のかたまりのやうなものがあるのを、はっきりと感じてゐる。私は夢中で、それを表現しようと試みた」と書いている。東方社版「自序」では「あとさきもない、一種狂熱につかれたような状態で」と書いている。「夢中」と「狂熱」は類似しているが、前者より後者の方が意味が強められている。これは田村が自己分析を重ね、意識化できたからである。そして、このレベルで田村は「肉体の悪魔」等を著した。そして一九六五年に、彼は『春婦傳』「自序」を次のように書き出している。

 「春婦傳」、「肉体の悪魔」そのほかの一連の作品のなかには、私が二十八歳から三十三歳までの、肉体的にも、精神的にも、自分の生涯でもつとも燃焼したと、自分で思っている時間のなかにあり、多くのものが、かなり、満足に表現されていると思う。きり立った黄土の山また山の太行山脈中の生活での生命の不安、孤独、無謀な勇気、おとなしい羊同士が感じあうような戦友愛、愛と肉欲の飢渇、いまとなっては、実感のうすれた、そういうものが、戦場から持ち帰ったままの、ナマな、それだけイキイキとした感じであらわされている。

 時間の経過とともに「実感」が薄れたことを自覚すると同時に「狂熱」には「戦場から持ち帰ったままの、ナマな、それだけイキイキとした感じ」の要素もあったことを、田村は認識できている。これは彼が発達・成熟したためと言える。決して「狂熱」の否定・否認ではない。なお、太行山は、毛沢東が「抗日遊撃戦争の戦略問題」(一九三八年五月)の第五章第一節で「すでに建設された、もしくは建設中の、これから建設されようとしている」中国共産党軍「根拠地」の一つであった(版も訳も多数。藤田敬一訳では『抗日遊撃戦論』中公文庫、二〇〇一年、一一八頁)。
 また、田村は前掲の作品集『蝗』「後書」で、先の引用文に続けて自分の「他人に知られたくない卑怯さ」や「気ちがいじみた情欲、あらゆる瞬間における獣への安易な変身」を書いている。これも一九五四年の発表の時点では、彼が発達の途上にあったためと言える。
 それらは、田村が己の過去を反省していることを示している。その上で、これに相関して戦時性暴力が誇張されている(デフォルマションが過剰になっている)としたら、それを取り除き事実を析出しなければならない。彼の反省は重要である。それを認めた上で、批判を行うのが研究である。
 このような田村の文学を分析するために、私はエロスとタナトスを鍵概念として応用する。これにより田村の文学世界ではエロスとタナトスが錯綜・融合していることを示す。「肉体」に引きずられてエロスに注目するだけでは不十分である。戦場という限界状況において「肉体」には屍体がデモーニッシュに付きまとっている。
 これは「肉体の悪魔」だけでなく他の作品にも通底している。確かに、戦後をテーマにした「肉体の門」などでは屍体は後景に退いているが、「失われた男」など戦争が重要な位置を占めている作品では肉体と屍体、エロスとタナトスのデモーニッシュな錯綜・融合がある。
 無論、田村の心理描写や自己分析はフロイト的であるとまでは言えない。田村の文学的リアリティに、フロイトの概念を応用してアプローチし、そのポテンシャリティを析出し、これは人間の本質的な認識において意義があることを明らかにする。それは田村の創造した文学的世界を、心理歴史的研究により発展させる試みである。

(二)独立した批判精神
 繰り返し論じたとおり田村には中国共産党へのシンパシーがあった。池田の指摘する「八路軍兵士への思想的コンプレクス」と言いうこともできる(「田村泰次郎が描いた戦場の性」三〇四~三〇五頁)。ただし、これは田村に限らない。マルクス・ボーイなどマルクス主義は流行になり、また勃興する思想として陸海軍に影響したことは『平和教育の思想と実践』、海軍へのそれは『「わだつみのこえ」に耳を澄ます』で論じた。
 ただし、田村は共産党員などの党中央、その象徴としての「延安」や「抗大(カンダァ)」への「幻想」も捉えている。即ち、彼は知り得た範囲で中国共産党に共感したが、批判精神を失っていない。
 彼の批判精神は志賀直哉や広津和郎との交流からも確かめられる。紅野によれば、志賀は文壇での交際は広くなく、さらに妻は文壇のみならず出版編集とも「ほとんど無関係」であったが、二人は田村と親交を続けていた(前掲「志賀直哉宛署名本(33)田村泰次郎の『蝗』」)。
 次に志賀の批判精神についてみれば、彼は小林多喜二の虐殺を知ると、二月二五日の日記で「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなりアンタンたる気持になる、不図彼等の意図ものになるべしといふ気する」と書き記した。また志賀は、二月二四日、小林の母、セキに、次のような手紙を送った。

 拝呈御令息御死去の趣き新聞にて承知誠に悲しく感じました。前途ある作家としても実に惜しく、又お会ひした事は一度でありますが人問として親しい感じを持って居ります。不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持になりました。御面会の折にも同君帰られぬ夜などの場合貴女様御心配の事お話しあり、その事など憶ひ出し一層御心中察し申上げて居ります。同封のものにて御花お供へ頂きます。

 また紅野は、田村が早稲田の「先輩にあたる」広津和郎と妻に「評判のいい人」であったとも述べている。広津は、日本共産党員作家とは異なり、独自の立場で疑惑に満ちた松川事件で被告を支援し、その全員無罪に大きく貢献した。
 これらは、田村の批判精神と照応している。それはまた中国共産党への賛同・共感と表裏一体と言える(保守への批判と革命への期待)。

(三)「最も実践的な末端」の「汚濁」へのアプローチ
 さらに、田村の独立した批判精神は日本国内の状況認識にも現れている。彼は、八路軍・中国共産党の「幻想」を認識するのと照応して、日本の戦争批判や「平和愛好論」には単純に賛同しない。日本の平和運動は日本の体制批判と密接に関連し、中国批判はその妨げになり、また中国から支援されなくなるため、往々にして中国批判を控える。私自身、直接間接、控えるように工作された。だが、そのようなことは田村にはない。
 田村は「この大戦争をおっぱじめた指導者たちの非科学的な神がかりの心理」を問う(「沖縄に死す」前掲『田村泰次郎選集』第二巻、一六七頁)。このような問題意識は彼の作品の随所に認められる。同時に、彼は銀座出版社版「序」で「『立派な』顔つきをした人々」について、次のように批判する。

 この激動する乱世のなかに、新しい人間像を探求することこそ、作家の仕事である。私たちはこの今日の汚濁と、混乱と、無秩序のなかにすすんで身を挺し、それらのものとまざりあひ、一つになつて、それらのものと格闘し、さういふ現実の内部から起ちあがって来なければならない。この現実の実状から故意に眼をそらし、特等席から民族再建の掛声だけをかけてゐたのでは、いつまでたつても日本人は救はれない。ところが、さういふ「立派な」顔つきをした人々が、戦時中からひきつづいて、まだなんと多くゐることだらう。さういふ連中は、自分の手もよごさないで、どぶ泥のなかに堕ち込んだ人々を救ひあげねばならぬと、口さきだけで叫んでゐるやうなものではないか。そんな連中を、私は全身で憎む。

 「汚濁と、混乱と、無秩序のなかにすすんで身を挺し、それらのものとまざりあひ、 一つになつて、それらのものと格闘し、さういふ現実の内部から起ちあがって来なければならない」という態度は戦前から一貫していた。だからこそ田村は戦争体験を文学作品に昇華し得たのである。
 これは「最も実践的な末端」への志向である。ここではさらに、中曽根康弘海軍主計中尉(後に首相)の「民衆の一人として生きぬけ!」という態度を挙げておく(「二十三歳で三千人の総指揮官」松浦敬紀編『終わりなき海軍』文化放送開発センター、一九八七年、九三~九八頁。以下同様)。彼は「前科者のすごいのも沢山」含まれる「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」と回想する。彼はまた「タライのなかで、イモのようにもまれながら、私の心は不思議にすがすがしかった。それは、毎日、死と直面した生活のなかで、私が悟った貴重な教えがあったからである」と述べ、この「民衆の一人として生きぬけ!」を挙げている。
 これは将兵の側だが、慰安婦に即してみれば、広田は『証言記録従軍慰安婦・看護婦―戦場に生きた女の慟哭―』の「まとめ」で「差別撤廃運動がいつも被差別側への同情を求めたり、差別は悪だという大義名分を掲げながらすすめられいることに疑問を持っている。……こんなにかわいそうな女性たちがいましたというお涙頂戴式に報告されたレポートがなんと多いことか」、「従軍慰安婦を取材する過程で私は、彼女たちがなまけものであったり、ずるがしこかったり、あるいはけっして他人に対して心を開こうとしなかったりすることから、眼をそむけないでおこうと決心した」と指摘した(引用は二四五頁)。
 確かにこれらは現代の価値基準では問われるが、タナトスとエロスが絡み合った「最も実践的な末端」に身を置いて奮闘・苦闘したことは重要であり、当時の段階に即して考えねばならない。

(四)人間として「貧し」き「平和愛好論」批判
①田村の思想性や認識
 東方社版の「自序」では「いまも私は、一兵士でなかったひとの戦争小説は信じる気持ちになれない。その点は、実に頑迷なものがある。実戦の体験者だけが、戦争小説を書ける資格があると、私は本気で考えている」と、表現が抑えられている。これは見解を変えたのではなく、時間の経過で「一種狂熱につかれたような状態」を脱したからである。表現が和らげられているが「自分の手もよごさないで、どぶ泥のなかに堕ち込んだ人々を救ひあげねばならぬと、口さきだけで叫んで」いるような「連中を、私は全身で憎む」という姿勢は本質的に一貫していた。だからこそ、広津のような文学者に評価されたのである。ただし、彼の過剰な「デフォルマション」を考えると、体験者の「戦争小説」も「信じる」のではなく、批判して熟読することが重要である。
 さらに「渇く日日」で、田村は次のように「平和愛好論」を批判し、「日本民族」の「人間性の貧しさ」、「人間としての貧しさ」を指摘する(『田村泰次郎選集』第二巻、一二一~一三八頁。以下同様)。

 たしかに、戦場にゐる者の考へ方は平常な生活を営んでゐる人間の考へ方から大分ずれてゐることは事実である。同じ戦場でも、前線と後方とでは、また前線でも行動間と駐留間とでは、また行動間でも戦闘間とさうでないときとでは、厳密にいへばそれぞれに人間といふものについての考へ方がちがつて来る。どんな人間でも、ある瞬間に於いては非人間である場合がないとはいひきれぬやうだ。死ぬことをまるで生きることのやうに考へる同じ考へ方で、正しくないことをまるで正しいことのやうに考へて行動するときがある。この世の道義の基準が地獄でまるであべこべになるやうに、――従つて、そこではこの世の物差しではかつてはわからないことがすくなくないやうな、そんな価値の顛倒が行はれる。そのことを考へるとき、戦争はそれがどんな戦争であるとしても、平和と秩序との敵であるといへる。究極の理想として、あらゆる戦争は反対されなければならぬ。このことは十分うなづかれることである。死んだ戦友の遺族を前にして、曾根は戦争の惨酷さをしみじみと胸に噛みしめた。けれども、こんどの戦争の目的が侵略であり、平和を愛好する国際間の道義の上から絶対にゆるされぬものであるとしても、この戦争の中に巻き込まれて、それを国家民族のためと考へ、勇敢にそれに自分の生命をささげた者の勇気と自己犠牲とは果して戦争目的と共に否定せられるべきものであらうか。曾根には、終戦後のいまとなつての人々の言説を読んだり聞いたりすると、きまつて、「生命が惜しかつた」とか「戦争は儲からぬ」とかいつた安易な平和愛好論が堂々とした正論として唱へられてゐるのは、戦争の圧迫から解放せられた反動として一応うなづけるのだが、やはり日本民族の人間性の貧しさを思はされた。それでは、かりにどんなにまちがつた平和であるとしても、それが表面上平和である以上いいといふのであるか。ひたすらに一身の安穏さへ保てれば、どんな卑屈な生き方でもしていいのだらうか。それが正論としたならば、自己犠牲とか正義を愛する勇気とかいふものは三文の価値もなくなるといふのか。正義のための犠牲的勇気を肯定することは、人類の進歩に反対することではないか。こんどの戦争は目的が侵略であつたからまちがつてゐたのだ。これが逆に、侵略される立場にあつた者は、平和のために戦つてはいけなかつたか。例へば中国の日本に対するやうな立場の場合、単に表面上の平和のために中国の抗戦は否定せらるべきものであつたらうか。
 「人間は誰でも幸福を追求する権利がある」といふ言葉の、幸福なるものは、いまの日本人の間では、何と勝手に、安手に考へられてゐることであらう。一般に見られる平和愛好論には、一身上の物質的な安穏を考へる面からのみそれが強調されて、人間の高貴な部分であるべき精神の面がまつたく忘れられてゐるのが、あまり安易に過ぎて、曾根には日本民族の人間としての貧しさに直面する思ひがするのだつた。

 文中の「勇気」は、マハトマ・ガンディーが「剣の教義」に対して「卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。(中略)けれどもわたしは、非暴力ははるかに暴力にまさることを、敵を赦(ゆる)すことは敵を罰するより雄々しいことを信じている。宥恕は武人を飾る」と述べた思想性に通底する(森本達雄訳『わたしの非暴力』みすず書房、一九七〇年、第一巻、五頁。前掲『ガンディーの真理―戦闘的非暴力の起源―』も参照)。田村は戦場でやむを得ず武器を手にしたが、しかし戦後は文筆の非暴力に徹した。それは戦争を受けとめ、乗り越える「雄々しい」平和の文学と言える。
 また「どんな人間でも、ある瞬間に於いては非人間である場合がないとはいひきれぬやうだ」の認識は、フランクルが洞察した「被収容者がものごとを判断するときにあたりまえのように見せる徹底した非情さ」と相似している(前掲『夜と霧』新版、五三頁)。田村の思想や認識の深さがうかがえる。
 これはまた、戦争の現実を知らず、平和を唱えることへの問題提起にもなっている。これは、慰安婦「支援」を含めて平和を唱える者が、自分は安全なところにいて、その安全を守るために危険な任務を果たす者を非難することについても当てはまる。

②池田の田村批判の検討(一)
 田村を過大評価しないために、彼への批判も考慮しなければならない。ここでは慰安婦に関わり、池田が前述した東方社版『春婦傳』「自序」の「あとさきもない、一種狂熱につかれたような状態で」執筆したことを取りあげた点を検討する。その注記では『昭和戦争文学全集第三巻・果てしなき中国戦線』(集英社、一九六五年)の村上兵衛の「解説」が挙げられており、その重引である。重引を一概に低く評価しているのではない。村上が選んだ田村の「自序」を池田も引用したという過程を確認したのである。
 文学者の選択であるからには、そこには評価が反映されている。先述した「夢中」と「狂熱」の違いなどから、これは妥当と言える。ところが池田は「狂熱につかれたような」者の小説であると見なす。しかし、これは田村が「狂熱につかれたような」自分自身を冷静に分析し、意識化し、書けたということが理解できていないことを露呈させている。
 また、池田は「日本軍と日本軍兵士の残酷さに目が向けられている」ことに着目して「あらすじ」を述べ、結びで「ここには恋愛だの心中だのとは全く無縁の、戦時買春の荒野だけが広がっている」と評する。読み込みが浅いだけでなく、考え方が一面的で、それを一方的に主張している。これでは慰安婦の生(ライフ)の全否定になっている。
 平和な日本で「戦時買春の荒野だけが広がっている」という池田に対して、戦争のデモーニッシュな限界状況においてもなお必死で愛を求め、少しでもその意味を守ろうとする者であれば、「でも、いいことだってあったわ」と反論するだろう。他方、あなたの青春には「荒野だけが広がっている」と言われて、「そう。私の人生はまっ暗だった」と嘆き続ける者は、さらに傷つくことになる。いずれにせよ、池田の一方的な断定は罪深い。
 

③補論―経験論・自己分析(二)―
 私は戦後生まれの「戦争を知らない子供たち」の世代であったが、調査研究を通して、この問題を少しずつ自覚するようになった。そして、米国の軍事力に守られつつ、日本国憲法(特に第九条)を持ち出して、自分は安全なところに身を置き、自分自身を含めた国民を守るために危険な任務を果たす者を非難することの無責任を認識するようになった。先述の池田の「戦時買春の荒野だけが広がっている」について、私は学生時代、東京の下町で学生セツラーが“このような状況ではだめだ”と言ったとき、“恵まれたもんが、何いってんのさ。あんたなんか、ここに来たって、結局はいいとこに戻れる。冗談じゃないわよ”という声が出たことを想わされる。類似の発言を、私は幾度か聞いた。たとえ問題意識があっても、現実に根ざさない空論ではだめだと痛切に思わされた。
 当時、私は憲法との関係で自衛隊に批判的であったが、平和については労働者の国際連帯(インターナショナリズム)で確保されると考えていた。しかし、ソ連や中国の一党独裁体制下の大規模な粛清や覇権主義による政治的軍事的介入の実情を知ると、インターナショナリズムを根拠にできないことが分かった。ところが、平和運動や平和教育は相変わらずであった。そのため、他国の脅威や侵略への対処、さらに国際平和維持活動の責務などに関して、対案がなく、現実から遊離した空論を繰り返している。これは言論の自由ではすまされない。自由は責任を伴う。
 このように考えてきた過程で、宮原誠一、五十嵐顕、藤田秀雄たちの平和論は身を以て闘/戦った実践に基づいていることを学び、前掲『平和教育の思想と実践』、『戦中戦後 少年の日記 1944-45年』、『「わだつみのこえ」に耳を澄ます―五十嵐顕の思想・詩想と実践―』などにまとめた(これは東大教育学におけるアクション・リサーチの研究でもある)。
 このような平和の思想と実践はテロリズムの拡散、テロリスト組織のグローバル化、戦場の拡大(陸海空から情報空間、宇宙、深海、地底、細菌・ウィルスなどへ)という戦争が“発展”する趨勢に対して、ますます重要になっている。戦争の“発展”に対して平和も発展させねばならない。この点で、平和構築や平和維持の活動に加えて人道的介入、積極的平和主義についても考えねばならない。日本国憲法と国連憲章の関連における集団的自衛権(これは日米安保条約の問題に止まらない)も重要である。
 そこにおいて、田村が提起した戦争の後遺症の問題は極めて重要である。戦場の限界状況から平和で豊かな社会に隊員が戻る時、「この世の道義の基準が地獄でまるであべこべになる」という感覚が生じることを十分に理解し、対処しなければならない。これは専門的なスタッフだけでなく、受け入れる周囲にも求められる。それは民度に関わり、無責任な空論を見極めるだけの力量が求められる。

(五)死した戦友の声なき声に耳を澄ます
 先述の「清純な、高い世界に憧れ」る心性について言えば、「渇く日日」における「平和愛好論」批判(先述)に続けて、田村は「毎日、心の晴れぬ日がつづいた。……あれほど期待して帰った故国なのに、すべてのものに裏切られて行くやうに思へた。曾根の魂は渇いて終日憂鬱な状態にあった」と述べながらも、結びは次のとおりである。

 ある夜、厠に起き、手水を使ふために雨戸を繰つてみると、庭は昼のやうな明るさだつた。雪が降つてゐるのだ。雪はまださかんに降つてゐる。雪は裏の工場の屋根にも隣りの家との境目の竹垣にも、莱園にも、あらゆるものの上に降つてゐる。庭の隅にある曾根の腰までしかない低い梅の枝にも降つてゐる。昨日今日幾つもその姿をみせてゐた花も白いつめたい綿に包まれてゐる。この雪はどんなものの上にも降つてゐるにちがひない。こんな静かな綺麗な世界から、いつから離れてゐたのかと、そのことが曾根にはしみじみと身に泌みた。騒々しい世間から離れて、いまこそ自分は考へるべきときだ。孤独にならなければ、七年にわたる銃火の生活から生死をつらぬいて得て来たものが、世間の雑駁な塵の中にちりぢりに散つてしまふやうな気がされて、ひしと自分を抱きしめていたわりたい気持にたヘられなくなつた。曾根には自分が甘い子供のやうな感傷にとらはれてゐることもわかつてゐた。死んだ戦友たちの霊が、雪の下の梅の枝々にほのあかるい灯をともしてゐるやうに思へた。そして、ひそやかに彼に話しかけて来るやうだつた。ふつと清楚なその霊たちの香りさへするやうだつた。さうしてゐると曾根は自分までが浄化され胸が発光するやうに思へた。
 「わかつてゐる、わかつてゐる」――言葉にだしてつぶやきながら、曾根は戸を開めて、部屋にひきかへした。床の間にも梅の一枝が匂ふてゐた。灯を消して再び寝具に身体を横たへた。暗い中で浄化された自分の魂がまだ光りつづけてゐるやうだつた。死の静穏がひたすらに思はれた。誰にも見せたことのない涙が瞼を濡らし、あとからあとからと頼を伝うにまかせてゐた。

 雪の降り積もる純白で静謐な世界に「死んだ戦友たちの霊」を感じ、そのひそやかな声なき声に耳を澄まし「わかつてゐる、わかつてゐる」と応じながら、「清楚」な「香り」で「自分までが浄化され胸が発光する」かのようだと書かれている。寝室戻っても「暗い中で浄化された自分の魂がまだ光りつづけて」いるようだと「浄化」を繰り返している。これも田村の存在の一要素である。私は小津の「一概に因縁噺として片づけられないもの」を踏まえて読む。
 それはデモーニッシュ(dämonisch)ではなくハイリッヒ(heilig)である。言い換えれば彼が「肉体の悪魔」を洞察し、描写し得たのは、精神に聖への志向があったからである。影は光があるからこそ見える。田村は戦争のデモーニッシュな経験と正対し、それを安易に否定せず、そこで苦闘した人間の深奥を哀惜/愛惜を込めて描き出した。それは「魂」や「霊」(英語ではspirit)という深奥の次元に迫っている。

(六)デモーニッシュな状況を描ききるハイリッヒへの志向
―強靱なヒューマニズムとアンチ・ヒューマニズムの複合―
 紅野は、田村が戦後は「風俗小説の方向に進」んだと評価するが、「戦後も二十年近く経た時点で、彼は再び初心にたちもどり」、「蝗」を執筆し、『蝗』を上梓したと論じる(前掲「志賀直哉宛署名本(33)田村泰次郎の『蝗』」)。そして、この『蝗』を「いかにも田村らしい、勢いのある、筆圧の高い字」で「志賀直哉様」と書き、署名して贈呈していることを紹介し、また、松本鶴雄を援用して「厭戦小説」、「ほのぼのとしたヒューマニズムがただよう」と評している。確かにそうだが、私はヒューマニズムだけでなく、「肉体の悪魔」を志向・嗜好するアンチ・ヒューマニズムもあると認識する。それは、田村の文学は一貫して変化・発展の中で屍体と表裏一体の「肉体」を追究していたと捉えるからである。
 また「厭戦」というより、戦争の現実に正対し、ヒューマニズムを奥底に秘めて、「肉体」の根源を探究しつつ、限界状況における愛と死を剔抉したと捉える。彼は、人間の中のグロテスクで非人間的な部分にまで迫りながらも、愛惜・哀惜を以て人間らしく生きようとする営為を見つめ、描き出す。そのヒューマニズムとアンチ・ヒューマニズムの複合はデモーニッシュな状況を描ききるほど強靱である。その根底には揺るぎないハイリッヒへの志向があるからである。
 「わかもの」という短編は、二度も「脱走」した中国人青年を斬首で処刑した戦友(沖縄出身)の息子が戦後自宅を訪ねてきて、結婚の「身許保証人」になってほしいと依頼することをモチーフにしている。田村は二人の喫茶店で微笑ましい愛を前にして、次のように結ぶ(新潮社版『蝗』二一七~二三七頁)。

 眼の前のコーヒー茶碗の中のコーヒーが……中国の若者の肉体から流れ出した血の色に見えた。夜明けの土に、ひっそりと流れ固まった酸化した血のりを、私はその濃く煮出したコーヒーに見た。
 あの斬り殺された若者にも……可愛い恋人があったかも知れない。私は不思議な気持ちを覚えた。命がけの危険を冒して、黄河を渡ったり、密航したり、自分たちの民族の魂のゆがめられない状態の中で、若者たちが勉学したい、ひとを愛したいというのは、一体、どういうことなのか?
 一口ずつ咽喉の奥で味わいながら、私はコーヒーを飲んだ。

 斬首の血痕を連想させられるが、それでもコーヒーを味わうところに田村の強靱さ、田村文学の心髄がある。トラウマで飲めない、飲んだが吐き出すというのではない。そこにはカニバリズムの要素もある。だが、これは野蛮を超えている。何故なら、田村は「愛」を理解し、共感できているからである。自分が戦場で凄惨な青春を送らされたにも関わらず、戦後の青年の「愛」を肯定的に描いている。「今時の若いのは」などと説教することもない。
 また「わかもの」では沖縄への差別も指摘されており、社会批判の精神もある。それを安直に年少世代に向けないところに田村の度量の大きさが現れている。そこにはデモーニッシュなタナトスやエロスどころかカニバリズムも乗り越えて創作した文学の力がある。それはハイリッヒとさえ言える。
 これに到るために田村は苦闘した。彼にとって「血」は極めて重く苦しいものであった。「渇く日日」では、最初の段落で、家に帰りほっとして「血液の交流が活発に」、「身体中の血が音をたてて流れはじめたやう」だと書くが、母に「軍衣の右の手首と胸のところ」の汚れを「気味悪そうに」、「血じゃないかな」と指摘される。母はその後も再度「あれは血じゃないかな」と問う。これついて以下のように述べられている。長いが重要なので引用する。

 ――とても他人には話してもわかって貰えないにちがいない苦労の思い出を秘めているということで、何か自分の肉体の一部のような錯覚を覚えるのだった。きつき、軍服を脱いだときの、あの身体全体が大きく呼吸をしたような生理的な解放感とは食いちがうようではあるが、それがもう再びこれを着ることはあるまいという、すでに過去をなつかしむ感慨に変っているのも実感だった。わずか数分の間の、われながらびっくりするほどの変化である。曾根の心には、戦地から着て来た軍服が、肉親の眼にもただ一途に汚ながられるだけなのが、何か自分の長い間の苦労が問題にされないような物足りなさを覚えるのだった。
 はじめから曾根は戦場のことは、誰にも話すまいと考えていた。船の中でも仲間同志がそれを話し、みんなその考えだった。それは話したとしても、とてもそれを経験したものではないと本当のことを想像出来るものではないと信じられたからだ。ところが、帰って肉親の顔を見ると、溜りに溜って鬱積していたものが、はけ口を見出したように、前後の脈絡もなくずるずると話しはじめるのだった。話してしまって、いつも曾根は後悔するのだった。母をはじめ肉親の者たちはその度に、「よかった、よかった、帰れてよかった」と曾根の一身の無事だったことだけをよろこぶのが、曾根には何か心に満たぬものがあった。自分が簡単に帰って来られたと思われていること、――実際はそうは思っていなくても、肉親の情がさきに立って、彼の無事帰還という結果だけが、まず肉親たちの胸を捉えているのではあろうが、――幾度かの不利の戦闘を、ただ好運と、生きようとする執拗な意慾とで、辛うじて生き抜いて来た彼には、そういう過程を見て貰えないのが、何か拍子抜けがしたような寂しさだった。また、長い戦場の同じ生活で、殆ど同じような考え方になっていた戦友たちの死、――それが、それほど問題にされぬということは、まるで自分が問題にされないような不満を感じるのだ。こんなことならはじめから話さねばよかった、――そういうことが予期出来たからこそ、何も話すまいと決心していたのに、どうして話してしまったのだろう、――話したあとでは、きまって話す前よりも一層いらいらとした、心になり、孤独を覚えた。
 殊に終戦後十日目の八月二十五日、保定南方八粁の北大冉という地点に於ける曾根の中隊と中共軍との戦闘は、中隊長以下二十数名の戦死者を出したのであるが、この戦闘の動機が中共軍と国民党との係争という中国の複雑な国内問題の葛藤の中に巻き込まれたがためであることは、中国の歩んで来たここ数十年の歴史の実情を知らぬ人には、どういって説明していいかさえ見当のつかぬものだった。それは終戦により旅団のいる保定まで兵力を集結するために、駐屯地を撤退する途中の出来事であった。八月二十五日の夜明けの五時頃からその日の夜中までつづいた戦闘は、敵の兵二千を下らぬのに対し、味方は二百名足らずの寡勢で、曾根たちはそれこそ全員玉砕の覚悟を幾度も決め、ようやくにして敵の包囲を逃れて来たのであった。あのこの世の地獄のような、どこもかしこも戦友の血でどす紅く染まっていた水のない川床の有様は、到底話してもわかっては貰えないと知りつつ、曾根は折にふれて、ふと断片的に周囲の人たちに漏らすことがあった。戦死した人々がどんなに自分の生命を軽くとり扱ったか、どんなに日本人らしい潔さに徹した心情であったか、――それを曾根は話したかったのだ。死んだものは死に損というような無責任な考え方、もう戦争は終ったし、自分たちは生き残ったし、これから大いに楽しもうというような安易な考え方に、しっくりしない気持があった。戦争というものが人間の世界に於いて何よりも不幸な出来事であるということを肯定するのは、自分たちより切実な体験と気持を抱いている者はいない筈だとわかっているのではあるが、それでいて尚、それだからといってその犠牲となって戦死した人々が勇敢であったという事実までも否定するには及ばないと思うのだ。自分たちの今日の平和が、戦闘という苦しい現実を通じて得られたものであるということを忘れて、戦争前と同じように安易な無責任な自由を追求するのでは、日本民族は再びときが来れば同じ悲劇を繰返すに相違ない。曾根平吉には自分と同じに戦って来て、そして死んだ人々のことを考えるにつけても、かって日本人のなかに、そんな勇敢な人々がいたということをまったく忘れたような、いまの日本人たちに不満を覚えるのだった。自分の周囲の人々はいうまでもなく、世間全体に対して、こういう物足りなさが、自分の胸の中にたくわえつまれて行くのを、曾根はあつかいかねていた。
 北大冉の話をした日、
「やっぱり、そうするとあれは血じゃないかな」
 疑いを新たに、母がいった。
「血じゃないっていうのに。何度いったらわかるんだ」と、年寄りらしいしつこい疑いように、曾根はやりきれない気持で答えた。
「それでも、話を聞いていたら、どうもそうとしか思えんようになって来たでの」
「あの軍服は、終戦後、大分してから支給されたものだよ。第一、その戦闘のときは夏服だったが、あれは冬服じゃないか」
 母はしばらく黙っていたが、しばらくすると、まだ釈然としないのか、ひとりごとのように小さな声でいった。
「そうかいな。こちとらの眼には、あの赤いものが血としか思えんがなあ」
 不意に曾根の胸に突きあげて来るものがあった。
「もし、そうだったら、どうだというんだ、――俺には、あの斑点が血であって欲しいくらいだ。一緒に戦闘した仲間の血だったら、どんなにうれしいか、――本当だぜ」
 母は黙ってしまった。曾根は年とった母にすこしいい過ぎたことが悔まれた。どうして七十五歳にもなる老母に、――五年三箇月の間、ただ彼の帰りを待ちに待って、やっと思いが、遂げられて夢中になっている老母に、こんなに強くいわねばならぬのだろう、自分ながら情けなかった。

 これは作品における記述だが、彼は『春婦傳』の「自序」で以下のように書いている。

 「春婦傳」を書いたのは、二十一年、郷里に復員して、まもなくであるが、そのころ、生きていて、七年ぶりで無事に帰った息子を迎えた老母と、私は二人で、他人の家の二階に間借りしていた。母は私の着て帰った軍服のシミを血ではないかとうたがった。血はきたないという考えが、母の頭にあった。「血だったら、どうだといんだ?」と、私は母に喰ってかかった。血ではなく、ただの汚れであった。が、私からはいつのまにか、戦友の血も、敵の血も、きたないという考えは遠のいていた。血のなかに、長年生きてきた。私の唐突な反撥に、母は眼をみはった。いくら話しても、他人にはわかってもらえない、六年の歳月のなかの自分を、母にだけはわかってもらいたかった。

 作品「渇く日日」が体験に基づいていることが分かる。そして改めて、血を連想しながらコーヒーを飲むことについていえば、実際の戦場において松村は上海戦における「クリークには死体は浮いていなかったので、人間のだしの出ている茶や飯から解放され」たと書いている(前掲『一等兵戦死』五三頁)。これに類似した状況はいくつもあり、私も聞いたことがある。そして、これまでの考察を踏まえれば、そのような兵士は基本的に野蛮ではなく強靱と捉えるべきである。それは理性を失っていないからである。死体の浮いているクリークの水は、無論、防疫給水の濾過装置を通し、また十分に煮沸して殺菌する。病気にかかれば戦えないからである。
 このような文学であるからこそ、世代を超えて読み継がれる。次にそれについて述べる。

第六項 世代を超えて展開する文学のポテンシャリティ・・・続く・・・

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