慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究―第5章第4節その2(2020/6/26)

第二項 ヒロ子と原田―「蝗」(一九六四年)―
(一)予備的考察
①「蝗」と「温故一九四二」の心理歴史的研究としての意義
 劉震雲の「温故一九四二」では、河南の大飢饉のため、人口約三千万の河南で一割(三百万人)が餓死し、もう一割が飢餓難民となる悲惨な状況と、その中を進駐した日本軍が難民に軍糧を放出して救援することで大災害を終息させ、また農民は日本軍に協力して中国軍を武装解除したという歴史が活写されている。言動や表情などは作家のイマジネーションが駆使されているが、基本的に史実に即しており、歴史を考察するための参考となる文学的リアリティがある。それはビアンコの概括に符合している(『中国革命の起源』一九九頁)。

 (農民は)隊を組んで国府軍の敗残兵を襲撃し、団結して徴募係の役人どもを虐殺した。河南省では、当局の無関心、無能力、穀物の囤積(とんせき)、さらには投機のために、一〇四二年から一九四三年にかけて起こった飢饉(2)が大いに悪化したので、日本人が一九四四年にこの省にふたたび(3)侵入した時、彼らにとって事はことのほか容易だった。彼らが前進してくるにつれて、農民は国民党の軍隊を襲撃し、武装解除し、時にはこれにリンチを加えたのである。
(略)
(2)未確認数字であるが、この飢饉のためにおよそ二〇〇万の死者を出したといわれる。
(3)戦争の初期に、彼らは一度ここを占領したことがあった。

 注(2)の「二〇〇万の死者」について、定説では餓死者は三〇〇万人になっている。だが、これ以外は史実の要点が的確にまとめられていると言える。
 ここで河南を中心とした大飢饉についていえば、それは蒋介石・国民党軍の焦土作戦による環境破壊、苛政、無策などの人災が引き起こした干害と蝗害の複合的大災害である。また、戦時下で日本軍が飢餓難民を救援した歴史は重要である。現在の平和構築、緊急人道支援の先駆と言えるからである(これらは後述)。そして日本では、田村が「蝗」(一九六四年)で、この大災害の一部の蝗害をモチーフにした。それぞれ文学的リアリティがあるが、やはり創作であるため、歴史研究としては検証が求められる。
 そのため参考文献を挙げると、中華人民共和国では共産党一党独裁の厳しい言論統制下でも、胡錦濤時代に宋致新編著『1942河南大飢荒』(湖北人民出版社、二〇〇五年)が出版された。統制が強化された習近平時代になると、民主制の台湾で、その『増訂本・1942河南大飢荒』(霊活文化、台北、二〇一三年)や孟磊、関国鋒、郭小陽編著『1942飢餓中国』(劉震雲専家顧問、華品文創、台北、二〇一三年)が公刊された。劉震雲が「専家顧問」になっていることは文学的リアリティの補強となる。また、日本の研究をみると、『戦史叢書一号作戦(1)河南の会戦』(防衛庁防衛研修所戦史室、朝雲新聞社、一九六七年)や兵士の手記・回想もある。そして、劉燕子は「中国現代文学のポテンシャリティと日本―「温故一九四二」が有する“もう一つの史実”を提出する文学の力―」において、これらの文献を比較考察して歴史認識としての意義を明らかにしている(『交感するアジアと日本』静岡大学人文社会学部、同アジア研究センター、二〇一五年二月)。
 これらから、「温故一九四二」も「蝗」も、優れた作家が史実に即して登場人物の言動に文学的な想像力・創造性を付加して意味を豊かにし、価値を高めたものと評価できる。このような創作は創造的であり、修正や美化ではなく、歴史研究においても意義を有している。何故なら、歴史は人間の歴史であり、人間にとって意味や価値は必要かつ重要だからである。
 これは自然史でも、人間は自然の内に存在する故に当てはまる。認識論的にいえば、王陽明に対して友人が岩の間に花を咲かせた樹を指さして「おい、いつも天下に心外の物などないと言ってるが、この花が咲き誇った樹は深い山のなかで自ら開いて自ら落ちるだけだ。おれの“心”と何の関係がある?」と挑発的に問うと、彼は「おまえがまだこの花を見ていないとき、この花とおまえの心は同じく寂に帰しているだけだ。だが、この花を看た、まさにその時、花の色がはっきりと現れてきた。だから、この花は君の“心”の外にあるなんて言えないさ(爾未看此華時、此華与汝心同帰於寂、爾来看此華時、此華顔色一時明白起来、便知此華不在爾的心外)」と答えたエピソードをあげることができる(『伝習録』より)。また禅問答の「無人の山中で木が倒れた時に音がするか」という問に対する「しない」という答もある。即ち、音は人間が認知するもので、人間がいなければ物理的な振動、波動(これも人間が考えた概念だが)があるだけである。西洋では、フッサールの「生の世界(Lebenswelt)」や「相互主観/主体性(Intersubjektivität)」の認識論がある。このように、自然は、人間がこれが自然だと認識してこそ自然になる。人間はそこに意味や価値について考える。まして、愛と死、エロスとタナトスが絡みあう歴史では、意味や価値はなおさら重要である。
 以上を踏まえて、次に文学的リアリティを確認するために、その歴史的因果関係として河南大飢饉の諸要因と日本軍の対応について述べる。

②文学的リアリティの基盤―歴史的因果関係―
A 蒋介石・国民党軍の焦土作戦「黄河決壊事件」と日本軍の被災民救援
 前掲『1942飢餓中国』の第一章では、蒋介石率いる国民党軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「黄河決壊(花園口決堤)事件」(火の対極の水が悪用されているが実質的に同様)について述べられている(特に一六頁から)。これは大飢饉の原因を把握するために重要である。
 大飢饉の五年前、一九三七年、盧溝橋事件が勃発し(夜陰の銃声の主体=主犯は不明)、収拾が図られ、停戦協定が結ばれたが、廊坊事件、広安門事件、通州事件、大山事件と続き、第二次上海事変が起き、日本軍は上海から南京に進撃し、一二月一三日に南京を陥落させ、さらに国民党軍を追撃した。これに対して、国民党軍は同胞の生活を全く顧慮せず各地で焦土作戦を行い、さらに一九三八年六月、黄河の各所を決壊させた。現在では、国民党軍の戦争犯罪が明らかになっているが、当時、蒋介石・重慶政府は、決壊は日本軍によるものだとのプロパガンダを繰り返した。実際は全く逆であり、それだけでなく日本軍は救助船を百艘以上も出動させ、被災民(中国の民衆)とともに救援し、また堤防を修復し、洪水を他に流すため新たに堤防や排水路を築くなど復興に努めた。ところが、中国軍は爆撃・銃撃した。当然、中国人=同胞も攻撃された。意図的に大洪水を引き起こし、日本を冤罪に陥れるだけでなく、救援活動をも妨害するという多重の戦争犯罪である。これについて、ビアンコは中国軍の特質、日本軍との比較とともに次のように述べている(『中国革命の起源』一九八頁)。

 一般住民に対して、徴発と略奪があまりにしばしば行われたので、農民は日本軍(1)よりも彼ら自身の軍隊(2)を更に一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村人を殺し、その衣類を自分が着込んで変装するということも起こった(3)。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は一九三八年に黄河の堰を開いた。すると黄河は一世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った(エロイーク)」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼らは水に溺れ、あるいは飢えて死んだのである……。
(1)日本軍は食べ物が良かったので、中国兵ほどには盗みをする必要がなかった。
(2)この表現が不適当であることは言うまでもない。彼らはこの軍隊を決して自分たちの軍隊とは考えなかった。日本軍の兵士も国民党の兵士も、外からやって来た同じ禍であるのに変りはなかった。
(3)例えば、一九四一年の春に、河南省と山西省の省境の山岳地帯で起こった。

 加えて暴政・苛政による「農民の困窮」が同書一一〇~一一三頁に書かれており、「徴発と略奪があまりにしばしば行われた」ことの補強になる。これはまた「温故一九四二」の文学的リアリティの論拠にもなる。ただし、ビアンコは「河南省東部」というが、氾濫は河南省、安徽省、江蘇省に及んだ。また犠牲者は「数十万」だけでなく、百万人という推計もあるが、確定的な数字はない。このこと自体が民衆・農民軽視を如実に示している。
 さらに、中国側の文献として前掲『1942飢餓中国』をみると、第一章で「黄河決壊(花園口決堤)事件」が中国軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「以水代兵」として述べられている(一六頁以降)。犠牲者について『1942飢餓中国』では八九万人としている。
 次に、日本側で、当時の資料『同盟旬報』(第二巻第一七号、一九三八年六月中旬、九~一二頁)の報道を取りあげ、見出しを列記し、この経緯を概観する。文字は現代的表記に直しており、()内は引用者の注である。
 「敵軍(中国軍)黄河決潰」、「支那軍又も黄河堤防破壊」、「我軍必死に土民救助」、「支那側、日本軍の所業と発表」、「漢口進撃に支障なし」、「被害状況」、「孟県、懐慶附近でも決潰」、「氾濫河水で新黄河現出か」、「決潰は敵の計画的暴挙」、「氾濫区域益々拡大」、「峠を越した模様」、「敵我が作業隊を猛爆」、「稍(やや)減水せるも水尖更に南進」、「下流減水で津浦鉄橋工事進捗」、「(洪水の)長さ既に五百支里」、「皇軍に一名の犠牲者もなし」、「北岸の決潰漸く修復」
 その後、一九四二年九月十四日、東條英機首相は皇居に「参内」し、「黄河改修」などを昭和天皇に「奏上」、「拝謁」した(『木戸幸一日記』東京大学出版会、一九六六年、下巻、九八三頁)。災害復興は一時の対外的な顕示ではなく、長期的な開発/発展(development)へと進めていたことが分かる。
 他にも資料はあり、金文学「毛沢東は日本軍と共謀『阿片』で巨利!」『歴史通』二〇一三年一月号(特に六二~六五頁)でも挙げられているが、その考察は別の機会に行う。
 以上から、中国が行ったのは自国の国土の破壊と同胞の殺傷であり、日本が行ったのは救援や復興であるということができる。

B 河南の大飢饉と日本軍の中国人飢餓難民救援
 この大洪水(人災・戦争犯罪)の被害は甚大で、自然環境が荒廃し、四年を経て、一九四二~四三年、河南省を中心に干害と蝗(虫)害の複合した大災害が起きた。ところが、蒋介石政権は被災民救援どころか、過大な課税、徴発、徴用を強引に押し進め、その結果、民衆はますます疲弊し、人災と天災の複合した大災害は大飢饉に至った。戦争犯罪がまた一つ増えたのである。
 被災民への救援は、外国人の宣教師たちが行っていたが、それは焼け石に水の如くであった。海外に知られると政府は遅まきながら救援活動を始めたが、腐敗した官僚機構のため実効性がないどころか、寄付金をめぐり争うような状況であった(後述)。かくして、大飢饉はいつ終息するか全く見通せない絶望的な状況が続いていた。
 この非人道的大災害を終息させたのはまたもや日本軍であった。日本軍は進駐に伴い軍糧を放出して飢餓難民を救援し、それを受け取る住民は日本軍に協力し、ともに中国軍を敗退させ、飢饉が収束しただけでなく治安が回復した。ホワイトは「仮に私が河南の農夫だったら、あれから一年後の河南の農民と同じように、祖国中国の軍隊を破ろうとする日本軍に手を貸しただろう」(先述)と共感している。これはホワイトや河南に限らない。「元軍閥の老将軍」は「余漢謀〔国民党軍司令官〕は苛斂誅求して民心を失っていた。住民は、日本軍は彼よりましだろうと思っている。大事にしてやってくれ」と日本軍に語った(佐々木春隆『大陸打通作戦―日本陸軍最後の大作戦―』光人社NF文庫、二〇〇八年、一〇二頁。なお佐々木は「結節が多く、小回りがきかない大軍の統帥の特徴だろうが」と理解を示した上で「沖縄上陸に対応した高等統帥の鈍重さ」を批判するように多角的で柔軟に考察。同前『大陸打通作戦』一四〇頁)。
 他方、蒋介石政権を支援するアメリカでは、『タイム』誌一九四三年三月一日号の表紙に宋美齢(蒋介石の妻)の肖像が掲載されるなど、蒋・宋夫妻をヒーローに祭り上げるプロパガンダが展開されていた(前掲『1942飢餓中国』一四六頁にコピーが収録)。一〇〇万人規模の犠牲者を出したジェノサイド的な無差別破壊(黄河決壊)作戦を黙認したどころか、大飢饉の張本人たる暴政をプロパガンダで助勢したのである。この問題と道義的な責任は歴史に明記して教訓としなければならない。
 さらに、このプロパガンダは日本軍の「侵略」を全面に押し出しており、そのため難民救済が正当に評価されないどころか、隠蔽され、さらにその被害の責任まで転嫁された。しかも、民衆が歓迎したものの、「蓋をあけてみたら赤くなっていた」という結果である(先述)。順調に進駐から統治へ進んだと思っていたら、秘かに「赤」=共産党が勢力を拡大していたのである。これでは、侵略の非難を受け、漁夫の利はさらわれ、まさに“骨折り損のくたびれもうけ”と言わざるを得ない。
 その上、現在もなお日本の戦争責任が問われ続ける一方、この難民救済は歴史に埋もれたままである。プロパガンダと史実の隠蔽が今もなお持続している(歴史の悪用)。確かに、被災民・難民救援には日本軍の宣撫工作という戦略もあったが、災害復興から持続した開発や軍糧供出と大飢饉終息という史実は揺るぎない。それに関わらず「抗日」や「反日」のキャンペーンを押し進めるのは、イソップ寓話の「農夫と毒蛇」の如く、恩を仇で返すに等しい(敵対したが国民党も共産党も同じ中国人)。
 しかも、日本ではプロパガンダに影響され過剰な反省に陥る者さえいる。魯迅の「まじめすぎる」を踏まえればバカ正直(ピュアなアホ)とさえ言える。

C 暴政における腐敗と「蠱惑性」―大飢饉に乗じた人身売買、特権階層の貪欲な食と性―
 中国人の劉震雲は「温故一九四二」で飢餓の故に同胞の人身売買で娼妓とされた少女を、また日本人の田村は「蝗」で朝鮮人慰安婦を描き出した。
 前者は少女の悲惨な運命とともに、大飢饉にも関わらず食のみならず性も貪る特権階層の腐敗を示している。これは先述した「蠱惑性」と密接に関連している。このような民族の中に日本軍は進攻した。やはり先に引用したニーチェの警句を思わされる。少女は当時では稀な女子校生で、父は大地主だった。彼は大飢饉、蒋介石政府の情け容赦ない徴税・徴発、飢餓難民の略奪、日本軍の進攻という複合的危難に迫られ財産をできるだけ持って難民とともに逃げるが、途中の混乱で財産を奪われる。悪徳商人と腐敗官僚は「災害につけ込んで私腹を肥や」し、難民の中では「家庭を支配する者によって、支配される者が売られる」という人身売買が横行する(『人間の条件1942』脚本、一二一場、及び小説、六二頁)。
 このような状況下、飢餓に迫られ、少女は父に売ってくれと願い、父は引きとめるが、最終的に同意する(『人間の条件1942』小説、六二~七〇頁、脚本、一〇一~一〇三場など)。さらに、少女が娼妓にされ、最初の客(腐敗官僚)の足を洗うために腰をおろそうとするが、できない。腐敗官僚が自分の足は汚くないというと、少女は「熱い涙をあふれさせる」て、「食べ過ぎた」ため腰をおろせないと釈明する(『人間の条件1942』脚本、一〇五場)。純潔が汚される悲嘆、屈辱、恐怖で胸がいっぱいだが、それは客には言えない。少女にも矜持がある。その代替として「食べ過ぎ」でおなかがいっぱいだと言う。無論、これもリアルで、凄まじい飢餓の反作用である。劉震雲のいう「ご飯の問題」(『人間の条件1942』「日本の読者へ」七頁)がさりげなく活写されている。
 その後、腐敗官僚は見せしめのために処刑される(『人間の条件1942』脚本、一二二場)。しかし、これは氷山の一角であった。
 そして、大飢饉は腐敗せる暴政ではなく、日本の軍糧放出で終熄する。大飢饉の中で力さえあれば食も性も貪れる「蠱惑」的な世界の内にあって、軍が守る慰安所は、それに引きずり込まれないための防衛手段であった。確かに、そのために朝鮮半島から女性を移送したことは問われなければならないが、しかし、半島でも人身売買どころか拉致・誘拐まであった。それ程までに東洋的専制の家父長制における女性に対する支配や収奪・搾取は広汎で根深く、これを看過してはならない。このような現実において、慰安婦は、歴史的限界にありながらも、「蠱惑」的な腐敗に陥らないための防衛的な機能を果たしていた。それを性慾の角度からのみ批判するのは一面的で浅薄である。

D 補論―日本人による他の救援事例―
 戦中、日本人が行った救援活動は他にもある。
 日本軍兵士の光俊明という中国人少年への処遇は人道支援として高く評価できる。以下、光俊明の『七歳の捕虜―ある少年にとっての「戦争と平和」―』(社会思想社現代教養文庫、一九九三年、河田宏解説)の概要を紹介する。光俊明は山西省に生まれ、子供ながら国民党軍の将校とともに行動したため、日本軍の「捕虜」となった。だが「捕虜」とは名ばかりで、将兵にかわいがられて華北からベトナムまでの大陸打通作戦をともにし、さらにイギリス軍の「捕虜」となりタイに移動し、延べ七千キロを歩き通した。その後も中国に戻らず、帰還する日本兵とともに来日し、日本の家庭で育てられ成人した。
 その中で慰安婦のみならず、「鬼」と称されるほど残酷で淫猥な日本兵も書かれている。彼らは拘束した中国人男女数組に性行為を強いて楽しむグロテスクなサディストであった(三〇~三三頁)。ところが、光俊明は「まるで別の人種ではないかと思われる」日本兵と出逢い(六七頁)、前述のように行軍をともにし、中国ではなく日本を選ぶまでになった。前者は山西で目の当たりしたことであり、その後で遭遇した日本軍との差異は、岡村大将の「殺すな、犯すな、焼くな」による軍紀粛正が反映していると言える。
 次に、日本はナチス・ドイツと同盟を結んでいてもユダヤ人難民を支援した。杉原千畝が発給したビザでナチスの迫害を逃れたユダヤ人の中にはシベリア鉄道の途中で日本軍統治地域に入り、日本、或いは上海を目指した。ソ連の官憲に拘束されてシベリアの強制労働収容所に送られるのを恐れたからである。また、上海は日本占領下であったが、ある程度自由な通行が可能であり、米国に向かうにはこちらが容易だからであった。そして、日本軍はナチスの意向に関わらず、ユダヤ人の通過を認めた。満州国内にユダヤ人居留地域を作る「河豚計画」さえあった(「河豚」は“おいしいが危険”という意味)。これは米国の経済封鎖に対してユダヤ人財閥と関係を強化するという戦略もあったが、人道的対応に変わりはない。即ち、外交官の杉原一人に止まらず、日本軍もユダヤ人に人道的に処遇した。それができる軍規と組織を日本軍は維持していたのである。
 これらは黄河決壊事件や河南大飢饉における難民救済が特例ではなかったことの証明にもなる。その人道的行為とそれがあまり知られなかったという歴史は、今後ますます日本に求められる人道支援や平和構築・維持にとって重要な教訓となっている。

(二)「蝗」を読む
①重層的な「悪魔」
 農民にとって「蝗」はまさに死をもたらす「悪魔」であった。田村も繰り返し「蝗」を述べており、それは死の影とともに「肉体の悪魔」をも想起させる。無論、戦争こそ「悪魔」の最たるものであり、「蝗」は戦闘の中でも極めて非人道的な焦土作戦の所産である。このように「蝗」にはいくつもの「悪魔」が重層的に内包されている。
 小説であるため、田村は因果関係を論じていないが、大飢饉の状況に言及している。

 蝗の大群が、黄河をはさんで、河南省に、今年の春から夏にかけて、異常に多数発生した……蝗の大群が、あっちこっち移動し、そのため昼間でも、空が薄暗くなったとか、砲や、トラックの車輪にはいりこみ、すりつぶされた蝗の脂で、心棒が動かなくなった……蝗の大群の襲撃を受けると、村じゅうの農民たちは総出で炊きだしをし、蝗の大群を自分たちの土地からよその土地へ追っ払うのに、銅鑼や、鉦を、気ちがいのように、昼も、夜も、叩きつづける……熱風のあい間に、しゅっ、しゅっという、蝗たちの羽根をすりあわすことによって発する、一種の金属的な、重い音を耳にすると、それは想像以上の大集団かもしれない。

 小説「温故一九四二」第七章でも、農民がシーツを竹竿に巻き付け振り回し追い払う、畑と畑の間に大きな溝を掘り蝗の移動を阻む、神頼みの三つの方法が記されている。銅鑼や鉦を叩き続けながら竹竿のシーツを振り回していたと言える。他の二つの方法は遠くから眺めるだけでは分からない。言い換えれば、両者は符合している。
 「温故一九四二」では中国難民の視点から大飢饉、戦争、デモーニッシュな物質的心理的荒廃、その中の「人間の条件」、そして日本軍の飢餓難民救援が述べられ、また「蝗」では日本兵と朝鮮人慰安婦を軸に性愛の飢餓、荒廃の中のつかの間の「慰安」、そこで芽生える情愛、その喪失が描かれ、やはり「人間の条件」について考えさせる。
 田村の大飢饉の記述は先に引用した程度だが、「蝗」はその後も繰り返し出てくる。その意味は重層的で極めて深長であり、その考察のために、まず導入部分の概要を述べる。

②デモーニッシュな導入と「奥深い」問題提起
 大飢饉の世界の内に存在しても、食料が補給されていた軍の内に存在する日本兵について、田村は食よりも性への飢えを描き、朝鮮人慰安婦を軸にストーリーを展開している。
 原田軍曹は二人の部下とともに、大量の白木の戦死者遺骨箱と、部隊専属の五人の朝鮮人慰安婦を、石太線の愉次から兵団司令部まで移送する。これは田村の任務と重なることを川西は述べている(『新・日本文壇史・第六巻・文士の戦争、日本とアジア』六七~六九頁)。
 その書き出しでは、慰安婦たちが「ツチモ草木モ/火トモエル/ハテナキ曠野/フミワケテ/ススム日ノ丸/鉄カブト……」(露営の歌の第二番)と合唱する場面である、だが、これは「列車の走る轟音とまじり、ただの喚声でしかなかった」、しかし慰安婦たちは「夜ふけだというのに、狂ったように声はりあげて歌っている」という情景である。しかも、車輌の三分の二以上の空間は、戦死者のための「白木の空箱」で占められていた。エロスとタナトスが鮮烈かつデモーニッシュに凝縮されている。そして、原田~田村の目には慰安婦たちの姿は見えず「うしろの鉄板の壁に映っている彼女たちの影だけである。レールの継ぎ目に列車がかかり、がたんとカンテラがゆれると、そのたびに、その影もひきつるようにのびちじみする」。サバト(魔女の夜宴)を想わせる描写であり、魔術的リアリズムの先駆とも言える。
 さらに「列車はよほど南下したらしく、むうっとする車内の熱気は、息苦しいほどになった。女なちはみんな、腕をまくり、スカートをまくって、同じ歌をいつまでもうたっている。ぶよぶよした太腿をつつむ青白い皮膚が、汗でべっとりと濡れて光っている。二本の軟体の肉塊が正面にあり、その肉塊のあいだには、どこまでもはいって行けそうに思える、奥深い暗部があるのを、原田は見た。その暗い暗部の上には、原田の知りすぎている女である、ヒロ子の顔があった」と記されている。エロティクだけでなくグロテスクでもある。
 さらに「どこまでもはいって行けそうに思える、奥深い」という描写は、ヘブライ語の聖書「ヨブ記」三八章八、九節の「海は二つの扉を押し開いてほとばしり/母の胎から溢れ出た/わたし(主なる神)は密雲をその着物とし/濃霧をその産着としてまとわせた」(新共同訳)を想起させる。ラテン系のフランス語ではmere(母)の中にmer(海)があるように母は広大な海をも包摂する。また、漢字で「母」は「海」の中に存在している。そして海から生命が誕生し、その進化のエッセンスを母胎で胎児が繰り返す(系統発生と個体発生の相関性)。このような壮大な生命の誕生に通じる生殖器官の「上」に「ヒロ子の顔があった」と田村は書く。だが、この「奥深い」営為を、狭義の慰安婦は禁じられている。新たな生命を産み育てるどころか、自分の生命さえ危険に曝されている。これは田村の文学に内包された「奥深い」問題提起である。

③朝鮮人抱え主の阿片密売
 「女たちの抱え主」は「朝鮮人の金正順」であり、朴裕河のいう「もうひとつの加担者」である。確かに「慰安婦の直接の管理は業者であっても、慰安婦を実際に管理できる権力を持っていたのは日本軍」であり(『帝国の慰安婦』二二〇頁)、原田軍曹はその一人であった。それでもなお、金正順が「前線の兵隊たちの欲望を満たさせるために、自分の抱え女たちを、そこへつれて行くという、りっぱな名目の裏で、憲兵隊の眼の光らない場所で、阿片を売買しようとするのが、この男の目的であった」という点は問われる。
 当然、日本軍の内では麻薬は厳禁であり、従って、それは日本軍基地の外の、しかも「憲兵隊の眼の光らない場所」で売られた。性に麻薬が加わり、幾層倍も膨張させられる慾望が絶望的なほど渦巻いており、まことに「蠱惑性」の恐ろしさを思わされる。

④補論―阿片と戦争―
 阿片について論を補うと、それは英国が戦争まで越して清に蔓延させ、これは軍閥とその集合体である蒋介石政権下でも同様で、さらに中国共産党や日本軍にも関わる。前者はよく知られているため、後者について、以下を紹介する。

A 中国共産党と「“特産”貿易」
 洪振快は「延安時期的“特産”貿易」(『炎黄春秋』二〇一三年第八期、四九~五八頁)で、塩など「表」の道が閉ざされ、「裏」の道しかないという報告を受け、「最終的に毛沢東が決定を下した(最終毛沢東拍板)」と記している。「特産」は阿片を指す。

B 「解放区」を通した売買
 山田豪一は、阿片栽培地区における八路軍や日本軍について述べている(『満州国の阿片専売―「わが満蒙の特殊権益」の研究』汲古書院、二〇〇二年、九〇五頁以降。以下同様)。「日中戦争の拡大は、駐蒙軍占領区、中支那方面軍占領区、そして北支那方面軍占領区間の、即ち、各方面軍間の阿片争奪合戦に発展した」と指摘し、八路軍・中国共産党の阿片栽培・販売について明記していないが、「栽培地域の縮小は、しかし、政府の収買できる地域が縮小しただけで、熱河の実在畝数の減少を意味しない.縮小した栽培指定地域と、高騰を続ける平津市場との間に満州国官憲が入り込めない解放区が生まれたことで、熱河の栽培地は農民にとっては平津市場と直接つながり、栽培指定区域からの収穫阿片の流出はさらに増大した」と記している。それは「解放区」を通して、中間搾取が少なくなり、農民と共産党が阿片の利益を山分けできると解釈できる。さらに共産党は非合法地下活動に長けているので、その犯罪性を隠せる。

C ウラジミロフの日記より
 ウラジミロフは、以上の裏づけとなる記録を書いていた。以下、摘記する。
・一九四二年八月二日(上巻四三頁)
 ソ連のユージンが「毛沢東同志、解放区の農民はアヘンの密輸をやると罰せられるならわしなのに、いまでは共産党の率いている軍隊や機関まで、公然とアヘンをこしらえているのはいったいどういうわけです?」と質問すると、毛沢東は答えず、代わりに鄧発が「ちょっぴりアヘンを持ち出して、お金をしこたま持ち帰るという寸法です。金は国民党から武器を買うのに使い、その武器で当の国民党をやっつける」と答えた。
・一九四二年十二月七日(上巻七七頁)
 秘密結社ギャングやアヘン密売、闇商売、盗賊、あいまい屋、売春経営などになり下がることが多い。/最古の宗団である“白蓮”はいまでも活動しており、孫文は“三人組”の支持をとりつけようと、その指導者と会談したことがある。(中略)康生はこれら秘密結社と接触を保っており、彼が関心を持つ、ほとんどの人物や出来事について豊富な資料を受け取っている。
・一九四三年一月二九日(上巻八六~八七頁)
 解放区の様子も奇妙だが、中共軍はもっとおかしい。彼らはいずれも、日本軍の後方部隊と大っぴらに取り引きしている。/いたる所で麻薬の密売が行われている。有名な第一二〇師団の後方本部で、彼らは原料精製工場をこしらえ、アヘンを製品化して市場に出している。/山西省北部はじめ、全国に各種の日本品がたくさん出回っている。これら日本品は日本軍の後方の集積地から直接送られてくるのだ。/第一二〇師団司令部の議題は、戦闘任務、作戦計画、その他の軍事問題ではなく、商売とか利益とかいった類のことだ。/これらすべて、中央からの指令に基づくものだ。このように八路軍も、新四軍も日本軍に対する積極的な作戦や軍事行動はとらないように厳命を受けている。
・一九四三年九月二二日(上巻一三九~一四〇頁)
 政治局は任弼時(党中央書記。中華人民共和国成立直後、一九五〇年一〇月二七日、脳出血で急死。享年四六歳)。を“アヘン取締委員”に任命した。しかも、毛沢東は彼にわれわれとさまざまな連絡をとるよう、しばしば命ずる。/解放区におけるアヘン生産の規模を正しく捉えることは不可能だ。アヘンは当地の商売の重要品の一つである。任弼時によると、彼はこの“事業”にイデオロギー的な基盤を与えようとしている。彼とじっくり話してみて、解放区の経済・財政状態が、中共指導部の言明とは逆に危機に瀕していることがはっきりした。(中略)経済的苦境につき、政治局で討議が行われた。政治局は“アヘンの生産と販売の国営部分”を集中的に発展させることに決定したのである。一方、当面の措置として、一年以内に、少なくとも一二〇万両のアヘンを国民党支配下の各省の市場に流すことも決められた。(中略)任弼時は最後に、毛沢東同志もアヘンの栽培、精製、販売がよくないことは心得ているといった。しかし、毛沢東同志は、現状では、アヘンも前衛的、革命的な役割を演じ得るし、それを無視するのは誤りだと断言したそうだ。政治局は全会一致で、主席の見解を支持したそうだ。/任弼時は私が中共指導部の“アヘン政策”を正しく理解できるよう、こんな打ち明け話をしてくれたわけだ。彼はソ連の特派員たちに、この決定を理解してくれる要望した。/私は同僚にそう伝えてくるといって、彼と別れた。
・一九四三年四月二八日(上巻二〇一頁)
 来るべき外人記者団の来訪を毛沢東は反ヒトラー連合の資本主義大国と公式な関係を樹立するチャンスとみている。(中略)しかしこのところ、中共指導部は予期しない困難に直面している。解放区はアヘンの生産に力を入れており、ケシ畑がいたる所にある。きわめて好ましくない恥ずべき事実だ。ケシの種まきが進んでしまえば、隠しようがなくなる。(中略)種まきは中止された。(中略)全速力で歓迎式や質疑応答や自給自足体制の準備が行われている。

⑤駐留部隊の戦時性暴力
 論点を「蝗」に戻す。列車はたびたび駐留部隊に臨時停車させられる。部隊員は慰安婦の存在を知っており、彼女たちを要求し、原田が抗しても、強引に連れ出し、性慾のはけ口にする。「ここへくるまでに、開封を出発してまもなく、新郷と、もう一箇所、すでに二回も、彼女たちは、ひきずり降されていた。そのたびに、その地点に駐留している兵隊たちが、つぎつぎと休む間もなく、五名の女たちの肉体に襲いかかった」と述べられている。
 それは蝗が飛びかう中でもなされた。駐留高射砲部隊長は鉄の車輌を「どすんどすん」と叩きながら、「こらーっ、出てこいったら、出てこんか。チョーセン・ピーめ」、「貴様が、引率者か。チョーセン・ピーたちを、すぐ降ろせっ。おれは、ここの高射砲の隊長だ。降りろ」と命じる。原田が車輌には「遺骨箱が載っているだけであります」と答えると「嘘をいうな。前から八輛目の車輛のなかには、五名のチョーセン・ピーが乗っていることはわかっているんだ。新郷から無線連絡があったんだ。命令だ。女たちを降ろせといったら、降ろせっ」と迫る。そして、将校は「酔っ払い特有の、テンポの狂ったねちっこい語調」で「叫び」ながら「腰から、刀を抜」く。それでも、原田軍曹は「女たちは石部隊専用の者たちです」と応じないと、次のようになる。

 「なにっ。文句をいうな。なにも、減るもんじゃああるまいし、ケチケチするな。新郷でも、さんざん、大盤振舞いをしたそうじゃないか。何故、おれのところだけ、それをいけないというのか」
 「しかし――」
 「しかしも、くそもない。いやなら、ここをとおさないだけだ。絶対に、さきに行かさない。いいか。わかったな。通行税だ。気持よく払って行け」

 下士官の原田は、部隊は異なるが、将校の「命令」に従わざるを得ない。そして慰安婦は大勢の兵士との性交を強いられる。しかも料金は払われない。戻ってきた慰安婦たちは「チキショー、パカニシヤガッテ。アイツラ、アソプナラ、アソプテ、ナゼカネハラワナイカ。カネハラワズニ、ナニスルカ」と文句を言う。これに対して兵士たちは「馬鹿野郎、作戦ちゅうに、金なんか持ってるかってんだ」と応酬する。
 この「ナゼカネハラワナイカ」という台詞に関して、慰安所で兵士は直接カネを払わないのでリアリティがないと考えるならば、それは理解不足である。慰安婦は直接カネを受け取らなくても、何人を相手にしたか記憶しており、それに応じた金額を忘/亡八から受け取る。この場合、それが全く期待されないので「ナゼカネハラワナイカ」と抗議して当然である。
 また「女たちは石部隊専用の者」ということは慰安婦が部隊ごとに配属されていたことを示しており、これは部隊への従属の下でだが、彼女たちが守られていたことも意味している。それは朴裕河のいう「将校や憲兵たちは、兵士の暴力や軽蔑から慰安婦を守る役割をもしていた」に相似する。
 さらに、彼女の提出した〈同志的関係〉は、「蝗」では「いつなんどき、地上の敵か、上空の敵の襲撃を受けるかも知れない、この戦場では、彼女たちは自分たちの遊び相手ではなく、あらゆる瞬間、あらゆる場所で、死によって絶えず待ち受けられている共通の運命を持つ者の同族意識で、いつのまにかむすびつけられていた」と述べられている。
 なお「抱え主」の金正順についていえば、彼は全て記録して、「胸部貫通で即死」しなければ、白沙鎮に着き、兵団戦闘司令部に赴き、料金を請求したと言える。無論、それは慰安婦たちには隠し、全てを着服した可能性もある。仮に彼女たちがこの可能性に気づいたとしても、朝鮮人慰安婦では司令部まで行けないから、彼の嘘を聞くしかない。だが、田村はそこまで書いていない。

⑥田村への批判の検討
 朴は、途中で高射砲部隊に停車させられ「通行税」を払え、他の部隊でも「大盤振る舞いをしたそうじゃないか」などと強弁・説得され、〈無償〉で「慰安」を強いられたことを取りあげ、「女性蔑視」だけでなく「民族蔑視」もあると指摘する(『帝国の慰安婦』二二〇頁)。私は、田村は「民族蔑視」のリアリティを描いたのであり、彼の日本人慰安婦批判を考えれば、彼にはむしろ「同族意識」があったと捉える。
 また、朴は原田とともに彼女らを「護送」していた兵士たちにも性行為を強制されることを取りあげる。彼女は「他人様のために、ご馳走運びなんて、もうばからしなったわ。班長(原田―引用者註)、おいら、いつ敵さんの弾丸にあたって死ぬかわからんのやぜ、死んでしもたら、元も子もないわ。そやないか、よしというてくれ」(先に引用)に続けて「それに、無事にあいつらを、部隊にひき渡したら、こんどはおれたちは、何百人という列のなかに、並ばんならんのやぜ。あいつらと一発やるのに、何時間も立ちん棒せんならんのやぜ。そんな阿呆くさいことって、あるかいな」という場面について、こう指摘する(『帝国の慰安婦』二二〇頁)。

 何よりもここでは、「何百人という列」という、慰安婦たちが繰り返し証言した風景を確認することができる。「ツカレテイル」とつぶやく慰安婦たちの、何百人も相手にしての「ツカレ」は、想像を絶するものだ。日本人慰安婦が主に将校を相手し、朝鮮人慰安婦が兵士を相手したとの証言を参照すれば、朝鮮人慰安婦の「ツカレ」は、最初から相手するべき対象の数において、日本人慰安婦より過酷であったに違いない。

 「ツカレテイル」はヒロ子(日本名)が原田に呟いた言葉である。そして「何百人も相手にしての『ツカレ』は、想像を絶するものだ」についていえば、何十人もの慰安婦で「何百人も相手に」するのであり、一人ではおおよそ多い時で一日二〇~三〇(四〇人が限度、先述の李玉善の「証言」への批判を参照)であった。当然、これも「想像を絶するもの」だが、注記しておく。一人の慰安婦の呟きを「慰安婦たち」と、また一人で「何百人も相手に」すると誤解、曲解することを避けるためである。
 また、朴は次のように批判する(『帝国の慰安婦』二二〇~二二一頁)。

 移動中にも強姦されなければならなかった朝鮮人慰安婦たちが、ときに膨大な数を相手するほかなかったというのは、否定者たちが考えるように一方的な被害でないにしても、そこが想像を絶する過酷な労働の現場だったことを示す。しかも、その労働は差恥心が伴われる労働だった。そのような労働を強いられた人々が自尊心を失い、自殺を思うのは無理もない。つまり、そこで「慰安」してもらうことは、構造的な苦痛を強いるという意味で間接的な〈殺害者〉になることでもある。たとえ彼女たちが朝鮮人の親に売られ、朝鮮人業者によって連れて歩かされていたとしても、彼女たちの人間の尊厳を失わせる最後の一振りを行ったのは、軍人たちと言うほかない。
 ……
 慰安所は、占領地の女性を強姦しないためとの名目で作られた。そのことをもって、慰安所を作らないで強姦を繰り返した他国のことを野蛮な国とする人もいる。しかし、「野蛮」(非管理)に対照される「文明」(管理)的場所としての慰安所は、貧しさやその他の理由で〈もの〉として扱われやすかった女性が集められた場所であった。そのような暴力を〈公式に〉容認した場所でしかないのである。つまり、慰安所とは、人間が人間を〈手段〉に使っていいとする「野蛮」を正当化した空間でしかない。性病の管理をしっかりと行ったという意味で、いたって「文明的」な顔をした、野蛮で暴力的な場所と言うほかないだろう。

 そして、池田は「兵隊も『慰安婦』も、戦場では明日の命も知れない運命だが、兵隊たちは慰安所へ行くことも、行かないこともできた。しかし、女性たちは有無を言わさず、兵士との性行為を強制された」、「最下層の兵士でも『慰安婦』にとっては加害者である」と述べ、このことに田村は「想像力を働かせることがない」、兵士が「加害者であることに思い至らない」と批判する。これは浅薄な読み方で、田村は痛恨の反省を込めて体験を作品に昇華し、それを通して兵士としてだけでなく、男として、さらには男女を超えた人間の存在としての加害に迫っている。「肉体の悪魔」はそれを象徴している。
 田村のいう「泣きたいやうな慕情」や「復讐的な気持」は「同志」や「同族」の意識よりも深く強烈である。この「同志」・「同族」かつ加害・被害の複合的関係性において愛を求めようとする人間の実存的な情念について、池田は「思い至らない」。それは差別や苦悩の中にも幸せになろうとすることの無理解でもある。結局は加害者であるから愛など考えられないというのであれば、それは考え方が貧弱である。

⑦ヒロ子と原田―「同志」や「同族」の意識を超える愛と死―
 確かに大多数の将兵は野蛮な性慾に屈している。原田にも性慾があり、またヒロ子も聖女ではない。しかし凄惨な限界状況の内にあってなお、二人は「愛」を求めあっていた。
 原田が駐留部隊の要求に抗したのは、任務としてだけでなく、「同志」的関係や「同族意識」の故と言える。これはヒロ子でも同様だが、彼女とはそれ以上の愛が生成していたと言える。
 原田はヒロ子のもとにしばしば通ったが、移送中は性的な振る舞いを控えていた。原田はヒロ子に慰安婦を求める兵士に「同情」しろと言うと、彼女は「オトコハ、ミンナ、トスケペーゾ。アタシトージョーシナイ」と反論し、「ハラタ、オマエ、ヘイタイニトージョースルコトナイヨ。オマエ、ヒロコト、ナカヨクスルダケ、イイヨ」と言い、「ハラタ……ネ、ハラタ……」と「鼻を鳴らして、自分の身体をすり寄せ」た。これについて、朴裕河は「慰安婦の悲惨な状況だけでなく、ヒロ子が原田に執着することで、苦痛をまぎらわそうとする場面を描いている」と述べる(『帝国の慰安婦』二二二頁)。私はそれ以上の「愛」を認識する。確かにコミュニケーションとして洗練されていないが、むしろ限界状況に置かれた者の原初的で本源的な「愛」がある。
 ところが、原田は「歯を喰いしばって、内部の衝動に耐え」、また「素直な彼女の誘いに応じられぬ自分の卑怯さと優柔不断さ」をも痛感していた。ただし、先述の長井軍曹のいう「管理している兵器」という意識も考慮すべきである(第四章)。移送中は慰安所ではないので、兵士は慰安婦との性行為を禁じられていたことは、先に引用したとおり「他人様のために、ご馳走運びなんて、もうばからしなったわ。班長、おいら、いつ敵さんの弾丸にあたって死ぬかわからんのやぜ、死んでしもたら、元も子もないわ。そやないか、よしというてくれ」という台詞から分かる。原田は律儀にそれに従っていたが、ヒロ子の誘いに応じなかったのは、それ以上である。原田はペッティングさえせず、自分が「卑怯」で「優柔不断」だと感じていた。これは女性から愛を告白された時に、拒まないが十分に応じない者の感情である。
 それは原田がヒロ子を愛していなく、ただ性的に求めていたからではない。原田は突然の砲撃で致命的な重傷を負うヒロ子を置き去りにせず必死に担架で運ぼうとする。性慾が主なら、そのようにはしない。しかも自分も極めて危険な状況にあり、決して「卑怯」ではない。
 だが、隊長は「いささかのためらいもない」、「一種のさわやかささえあ」る「発音」で「廃品はどんどん捨てて行くんだ。いつまでも、そんなものを抱え込んでいたんでは、戦闘は出来んぞ。身軽になれ、身軽に」と命じた。その後の描写はないが、結局は置き去りにしたことが読みとれる。
 つまり「隊長」とは異なり、原田は「カルネアデスの板」に通じる限界状況に置かれたと言える。また当然、隊長の命令は非人間的だが、これにより原田の罪悪感は軽減されたことも軽視できない。まさに田村のいう戦場では「この世の物差しではかつてはわからないことがすくなくないやうな、そんな価値の顛倒が行はれる」(先述)を思わされる。
 だが、原田は「自分の左肩にとまって動かない一匹の蝗」に気づき、「不気味に思」い、「(自分に)対するヒロ子のさげすみに満ちた憎しみは、彼の行くところ、どこまでも追っかけてくるにちがいない」と感じた。最後は見捨てた「卑怯」者の運命が暗示されている。これは「春婦傳」と対照的だが、「破壊された女」を踏まえた「肉体の悪魔」に近い(後者については後述)。
 さらに「蝗」が大飢饉をもたらしたことを踏まえれば、それは悪魔の具象と言える。まさに「どこまでも追っかけてくる」恐るべきものである。しかし、それに気づくのは原田において「価値の顛倒」は不十分で、まだ人間性が保たれ、人間の条件から逸脱していなかったことを意味している。

⑧「女を殺せなんちゅう命令など腑に落ちんことが多かった」
 別な場面で、慰安婦のマチ子が空襲で「腹部をやられ」たが「まだ生きてい」た。やはり生き延びた原田が、そのとおりに高級副官に報告すると、「馬鹿、何故、射殺してこなかったか。生きているうちに、敵の手中に落ちては、味方の情報が敵に筒ぬけではないか」とどなりつけられた。これは、拉孟でも里美兵長が「女を殺せなんちゅう命令など腑に落ちんことが多かった」と述べたこと(先述)に符合している。しかし、このような命令に対して慰安婦と密接な関係のある下士官の中は、里美のように従わない者もいた。里見の言葉は原田の代弁となっている。
 ただし、これは慰安婦だけではない、日本兵でも傷病により、たとえ落伍したくなくとも、部隊に付いていけない者には「自決命令」が下された。そして、見込まれて選抜され、前線を巡回する任務を与えられた慰安婦にも、それが求められた。金春子はピストルを渡され、それで応戦し、最後の一発は「耳のところにあててひき金をひ」けと指示された(第四章)。
 このような段階に到れば、「同志」や「同族」の意識が形成されて当然である。しかし、戦闘はそのような慰安婦にも、そうでない慰安婦にも及ぶ。後者の中には運命を呪い、日本に怨嗟を募らせる者も出てくる。

⑨付きまとう「蝗」
 駐留部隊の強要による戦時性暴力が終わり、慰安婦たちは車輛に戻るが、彼女たちのシュミーズの中まで「蝗」が入りこんでいた。彼女たちが「イタイ」といって「大きな褐色をした昆虫」をつまみ出し「鉄板の壁に力一ぱい叩きつけ」て、「コノパカヤロー」と罵った。この「蝗」は無数の農民を餓死させた蝗の一匹であることを想えば、エロスにタナトスの影が覆い被さってくる。
 原田たちはようやく司令部に到着したが、生きのびた慰安婦は二人だけだった。任務を果たし終えた原田軍曹・班長は慰安所に行き、行列に並び、待つ。ようやく順番が回ってきた彼に対して、朝鮮人慰安婦・京子は「コラ、ハヤク、ヤリナヨ。グズグズシテイルト ヤラサナイゾ」、「ナンダ、ハンチョーカ。オマエ、ヤルノカ。ヨシ、コイ。ハヤク、コイ」と声をかける。原田は、京子の「のびきった、白い肉体の上に乗りかか」り、いよいよ交合しようという時、「内股に、刺すような、鋭い触覚を感じ、身体をはなした」。これに続けて、田村は次のように述べる。

 そして、いま、自分の内股に、刺すような、鋭い触覚をあたえたものの正体を見極めるために、彼女のその部分に、自分の顔を近づけた。たてに暗紫色に縁どられて、たるみきつたもりあがりにかこまれた、深い、大きなたての亀裂が、そこにあった。そして、その亀裂と、彼女の右の大腿とのあいだに、一匹の褐色の蝗が、よちよちとはっているのを、原田の瞳ははっきりと見た。が、女の身体はさっきからの人間の能力の限界を超えていると見える。つぎつぎと彼女の前にあらわれる、果てない兵隊たちとの格闘で、そこの部分が完全に麻痺してしまったように、そのことに気づかないのか、気づいていても、それを手で払う気力さえないのか、節くれだった六本の肢と、堅い羽根を備えた昆虫の、はいずりまわるのに任せて、完全に死んでしまっているなにものからようにぐつたりと、そこにのびていた。

 女性の秘部と太腿の間を這う「褐色の蝗」という描写はエロティクかつ「不気味」であり、エロスとタナトスが凝縮されていると読める。この「蝗」に表象されるタナトスは蝗害による無数の餓死者である。さらに、この「蝗」が先述した「ヒロ子のさげすみに満ちた憎しみは、彼の行くところ、どこまでも追っかけてくるにちがいない」と思わせた「自分の左肩にとまって動かない一匹の蝗」であったらとしたらという読後感を覚えさせる(少なくとも私はそのように読む)。無論、その可能性は極めて低い。しかし、個体としては異なっても、原田に対して象徴として機能する「蝗」は同じであるとすれば、まことに「不気味」である。無論、田村はそこまで書いていない。だが、そのように読みとることはできる。それが文学のポテンシャリティである。

第五節 中国人慰安婦と日本兵
第一項 張沢民と佐田/張玉芝(朱愛春)と田村・・・続く・・・

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