慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究―終章(2020/6/28)

終章 人間の条件

第一節 誰もが肉慾の奴隷であったのではない
第一項 野蛮と文明
 日本軍将兵は誰もが肉慾の奴隷であったのではない。公娼が認められていた時代、以下の事例があったことは、その時代の人間性のあり方として捉えるべきである。
 性慾を満たせる条件があるにも関わらず、踏み切らなかったのは佐田=田村だけでない。元日本兵(複数)から“慰安所に入ったが、どうしてもその気にならず、慰安婦と話しただけで出てた”等の証言はいくつか聞いた。慾望はあるが、それが現出するのには条件がある。卑猥・卑俗な雰囲気では文明人・知識人なら萎縮して当然である。野蛮な者は嘲笑するが、文明に即してみれば、それは「人間の条件」の内に踏みとどまった証しとなる。

第二項 七つの事例
(一)田口清克の情報
 一九九七年一月に開催する「心に刻むアウシュヴィッツ秋田展」の広報依頼のために、前年八月二五日、秋田県青年会館に田口清克(理事・事務局長)を訪ねた。用件を終えると、彼の方から、“戦争と言えば、日本も忘れていけないことがある”と前置きして、以下のように語った。

 慰安所で部屋に入ると、慰安婦の応対から雰囲気が違うので、つい、きちんと挨拶して自己紹介という流れになり、やはり品があるので、どういう身の上かと尋ねると、女学校を出たけれどこうなってしまったと話されて、確かに知的で清楚な感じがして、手を出せず、何もしないで退室したという兵士がいたそうだ。その時、慰安婦になったの落魄の理由も聞いたが、家の破産か、欺されてか、それ以外か等々は忘れてしまった。でも、この内容は憶えている。

 誤解のないように言えば、田口は決しておもしろおかしいという口調や表情ではなかった。彼は、いつもの木訥で生真面目な態度で“「慰安婦」というのがあって、知人から聞いたことだが”と続けた。私は「アウシュヴィッツ展」に集中していたため、これをメモしなかったが、要点だけは確かに記憶している。全く確かめようがないが、秋田の純朴な兵士が心を打たれて、手も触れなかったのは十分にあり得ると考えてきた。

(二)平尾治の記録
 平尾治は「流浪の姉弟」という表題で、一九四四年、大陸打通作戦で河南・鄭州に駐留していた時の出来事を、以下のように書き記している(『或る特種情報機関長の手記―我が青春のひととき―』八四~八七頁)。

 ある日の昼食後、庶務係のI中尉が、いいところを見つけましたから案内しましょう。とのことで、ついていくとこの婆さん(それまで数回会っている―引用者)の家であった。
 I中尉が何か一言いうと、老婆は出て行ったが、直ぐ十五、六歳の少女を二人連れて戻って来た。彼女たちの着ている紺色の服は、ひどく粗末であったが、割合に小ざっぱりしており、二人とも中々美しかった。万事了解した私はその一人とともに個室に入ったが、気が進まなかったので、お茶を飲みながら、少女に『魚光曲(ユイコアンチュイ)』を一曲歌わせただけで帰った。

 この場合は日本軍に付随した民間の「慰安所」と「慰安婦」と言える。そして、先述の秋田の兵士の話は間接的な伝聞だが、これは文献に記されたものである。私はこれを読んだ時、前者を補強できたと考えた。
 『或る特種情報機関長の手記―我が青春のひととき―』において、平尾は以下のようにも記している。長文だが、この文献を収蔵している施設が極めて少ないため引用する。

 (先述の出来事)から二日ほどたったある日の朝、老婆がちょっと話があるからとの言伝を聞き、何かと思い早々に行くと、家の中に少女と少年が来ていた。二人ともとてもやつれていたが、少女の方は十五才くらいで色白く、花のようなあえかな感じで、少年の方は十三、四で、色は黒いが口許が締り、ななかなかしっかりした顔付であった。話と言うのは、私にこの二人を買取ってもらいたいとのことであった。大人(だいじん)の人柄を見込んで二人合せて軍票で四百円、もし、少女だけなら三百円、少年だけなら百五十円にするから是非と言う。また気に入らないならば、北京でも南京にでも連れて行けば、これほどの容貌なら、手つかずに売れば、少女は五百円以上に、少年は相公(シァンコン)(ゲイボーイ)として三百円には売れるとも言った。二人とも、見れば見るほどよく似ており、特に少女の方はどこかで会ったような顔だと思ったら、親の反対で結ばれなかった初恋の彼女とそっくりであった。二人は姉弟らしく、身には粗服を纏いつつも、顔立ちや挙措に、どことなく品があった。
 二人を買取るぐらいの金は持っていたが、買うが非か、買わざるが是か、とても迷った。可哀想だ、あるいは好きだと言って連れて帰った場合、恐らく部下の非難の眼を受けるだろうし、又、どう言う具合にして生活させて行くかが問題であった。といって、売り飛ばすなどと言うことは私の性分としてできない。それにしてもこのまま別れてしまうには何か知ら未練があり、後髪を引かれる思いがしたので、お茶を畷りながら、しばらく、二人と話をすることにした。
 型通り、出身地とか家庭の様子を聞いてみたが、予想通り二人は姉弟で洛陽出身とのことであった。姉の方は少しおどおどしており、じっと顔を見詰めるとすぐ眼を伏せ、言葉はよく聞きとれなかったが、少年の方はとてもはきはきしていて、眼玉をクリクリさせながら、訛の強い北京語で話した。家庭の事情は容易に言わなかったが「洛陽城頭桃李花」(ローャンチョントウタオリーホア)と言う唐詩の物語りなど問答しているうちに、心が解けたのか、ぽつぽつ話し出した。
 それによると、姉は女子中学二年、弟は中学一年で、父は相当富有(ママ)な商人だったらしく、日軍の空襲で家もろととも爆死し、母は郊外の知人の家で病気で寝ており、兄が一人あって働いてはいるが、収入がほとんどなく、やむを得ず、二人を売りに出したとのことであった。そうして、恐ろしかった戦いの有様を語っていたが、こんな風になったことは没法子(メイファーツ)(仕方がない)とあっさり言い切った。又姉は大人の北妻(ペィチー)、すなわち現地妻で結構であり、自分が働いて食費くらい何とかするから、是非二人いっしょに買ってくれと、あどけない顔に似合わず健気なことも言った。
 話している間に、ますます何とかしてやりたいという気持ちが強くなったが、一応即答は避け、明日午前中まで待ってくれと言うことにした。別れ際に、姉弟に幾らかづつ心付けを渡した。すると少年の方は急に頬を紅潮させて、
 「我們不是花子、不要!」
と激しく言ってつき返した。すなわち、私たちは乞食ではないから、いらないと言うことである。身は売っても心は売らないと言うわけである。これには驚いた。それだからとて、一旦出したものを受取るわけにはいかないので、当然の報酬だし、又病気の母親に何か買ってあげたいと言う私の気持ちだけだと説明して、やっと納得させた。
 さて宿舎に帰ってから、こう言うことには経験の豊富なS中尉に、どうしたものだろうかと相談すると、しばらく考えていたが、連れ帰って売り飛ばすなら別ですが、生活環境の違った異民族との同居生活は、とても辛抱できるものではありません。断る方が賢明ですと言うので、翌朝早々断りに行った。
 鄭州を去る前日、やはり気になるので、それとなく老婆の家を訪れ、聞いて見ると、姉の方は和平軍の将校に買われ、弟の方は転売されて北京の方に行ったらしいとのことであった。戦争さえなければ、裕福な家庭で何不自由なく親子同朋そろって成人できたのに、思いもかけない戦火のため、父も家も、そして財産すら失い、一家離散となった母と子、姉と弟の流浪の旅、思うだに暗然たるものがあった。

 平尾が人徳を見込まれて、娼婦や男娼に売られるより、現地妻と下男として買ってくれないかと頼まれたことが分かる。最終的に平尾は断ったが、事情が違えば、そのようになった可能性もあった(ただし特種情報機関長という立場では同居などには至らなかったろう)。
 この可能性は「慰安婦」としての現地妻にも関わる。これは私の不十分であった現地調査の補強となる。その上で重要なのは、これは「強制」というより、歴史的制約の下での好意や温情(恩情)の帰結であったということである。
 さらに平尾の人間性についていえば、先の引用文に続く結びでは「中共軍の勝利により中国にはやっと平和が到来した。おそらく辛亥革命以来数十年振りかも知れない。主義・主張の差はとも角として、何よりの平和の日を待ち望んだのは、多くの民衆であったのではなかろうか」と述べられているとおり、老婆の見込み通りであったと言える。
 なお、「少女の方は十五才くらい」、「女子中学二年」とあり、また前の引用では「十五、六歳の少女」とある点も、歴史的現実、その制約を踏まえて考えるべきである。決して肯定するのではない(上げ足取りは御無用)。関連して聞き取り調査などにおいても、十代前半の少女が「慰安婦」とされたことはしばしばであった。そのような時代であり、この場合が特別ではない。ところが、このような実状をよく知らない「ピュアなアホ」が聞くと愕然として義憤を覚える。それを十分に理解するが、また実状を認識しなければならない。
 少年は「相公(ゲイボーイ)」にされると説明されるが、他にも、養子にして召集が来たら代わりに出すことも考えられる。その後で、当局を買収し、名前を変えれば我が子を家に確保できる。
 早見上等兵は「目前に攻撃してくるには、声変わりもしていない少年兵が多かった。黄色い声を張り上げて突入してくる。……まだ一二、三歳くらいの子供に見えた。銃座の前まで這い登ってきて、後ろからは拳銃を構えた将校に督励され、さがるにもさがれず泣きながらしがみついている者もいる」と語った(『異域の鬼』二六九頁)。私も「子供のような顔つきの兵士が泣きながら何人も突撃した」と現地調査で聞いた。国民党軍に対して“米式重慶軍”などの揶揄があり、確かに兵器は「米式」でも作戦行動では低レベルだが、このような少年兵は、哀惜を以て思い遣らねばならない。

(三)李佳烔の記録
 李佳烔は、古参兵の上等兵に慰安所に連れて行かれても、性行為まで及ばずに出た(『怒りの河』六三~七一頁、八〇~八三頁。以下同様)。彼は「同族」の「金某氏(氏の表記から民間人と言える)」から「十円札軍票三枚」を渡され、同胞の「貞子」の部屋に入った。彼は「こういうところが初めてであ」り、「男女七歳不同席の国に生まれた私は男女交際に関する限り恐ろしく無知蒙昧なピューリタンであ」り、「困惑と焦燥と恐怖にとらわれ」、「ふしぎにも」、「欲情がわかなかった」と述べる。さらに、コンドームを持っていないため梅毒を恐れて「萎縮」したか、「暑さと酔いのため精神が朦朧としていた」とも自己分析している。
 そして李佳烔は「貞子」と故郷や身の上について話しただけで部屋を出た。ところがその際、「貞子」は「まるで男に疎んじられた」ように「みすぼらしくみえ」た。李佳烔が軍票三枚を掌に「すべりこませ」ると、彼女は「何すんのよ?」と「かっとな」り、「投げすてるかのように手をあげた」という。
 李佳烔は上等兵に「どうじゃった?」と尋ねられ、「やはり私は日本ピーの方がいいと思いますが」とごまかすが、「だきしめてやらなかった」ことを「悔い」、さらに自分「自身に対して侮蔑と嫌悪の情にとらわれ」た。そして「貞子」への思いは後まで尾を引いた。
 無論、李佳烔に「欲情」がなかったのではない。彼は「くらがりの中に寝ていたが、私の興奮はなかなか収まらなかった。夢の中で私は階段下のくさむらの中で完全軍装をした身で五女の裸身を抱きしめようとあらゆる手をつくしていた。そしてそのたびごとに臍の下のできものがちくりちくり痛むのだ……」とも記している(『怒りの河』九六頁)。
 また、李佳烔は「ビルマの少女のヌードを前に」の表題で、次の出来事も述べている(『怒りの河』二五六~二五八頁)。

 小村軍曹の引率でインネンまでいく途中に、まことに因業なことが起きた。どうしてそのようなことが起こったかはしらないが、狼師団の敗残兵がたちまち荒野の狼と化したのだ。
 われらは名もしらぬ街を通り過ぎていた。公路の左の方は人家のない広い野原であるが、右の方はかなり立派な木造家屋がならんでいた。
 兵士らは、いきなり散らばって人家に飛び込んで行った。ついで、ビルマ人の叫び声が聞こえた。陽が照りつけ埃が風に吹かれて舞い上がる公路の上で、私はひとりぽかんとしていた。しかし、そのまま立ちんぼを続けているわけにもいかない。私も他の兵士らが飛び込んでいない家に向かって突き進んだのだった。
 私が入った本造のかなり大きい家には廊下があった。その突き当たりのドアが少し開いていた。私はそのドアをすっかり明け放して中に入った。空き部屋であったが、一隅に何かが動いている気配がした。私は暗がりに向かって銃を突き出したたまま目が慣れるのを待った。銃身の先に浮かび上ったのは、ロンジーを胸の上まで引き上げているビルマの少女の恐怖にとりつかれた顔であった。
 少女は両方の肘で乳房のふくらみをおさえるようにして掌を合わせていた。何かの彫像を見る思いであった。少女のふたつの眸が私を突き刺すように見据えていた。瞬間、私はなんとなしに後をふりかえり廊下をみわたした。ダアーを持ったビルマ人が足音を殺しながら近づいて来ていたのだ。私はすばやく銃口を彼の方向に向けると、男はびっくりした様子で姿をひるがえし外に逃げだして行った。もしも私に銃がなかったらどのようなことになったであろうかと、今も思い出すたびに慄然とする。
 私はふたたび少女をにらみつけた。「お前の父は逃げたのだ。覚悟しろ!」と言わんばかりに……。少女は眼をつぶっていたが合掌の姿勢はそのままであった。少女の乳房はふくらんで見えた。彼女は、まるで覚悟をしているみたいだ。
 少女は仏様のたすけを求めているのか、それとも日本の兵士の慈悲を願っているのか。日本人兵士から恥しめ(ママ)を受けるものと思い込んでいるらしい少女が、私は急に憎らしくなった。なぜ合掌しているのか。
〈オーム アラナヤ……〉
「やめろ!」
 と、私はいきなり大声でどなった。
 少女はひどく驚いたらしく、ロンジーがするりと落ちて少女の下の部分が丸見えになった。今度も、もっと驚いたのは少女よりも私であつた。少女のヌードは毛がなく稚くみえる。私はふと幼い時に風呂屋の女湯で見た朝鮮の少女の稚い下部を思いだす。少女は、ロンジーを引き上げようとしないし、私の視線もそこから離れられないのだ。
 私はあわてた。足は凍りついたようであった。私は少女のヌードの前で、にっちもさっちもいかなかったのだ。私は少女の下半身よりも、ふっくらした乳房が気になっていた。私は少女の乳房を、そうだ、シツタン河のジャングルの中で、なでまわし、いじくりまわし、吸いあげた恩京の乳房のように、なで、いじり、吸いたい欲望にとらわれていた。しかし足がうごかないのだ。
 私はいらだってきた。ふたたびドアの外の廊下をふりかえる。人の気配は全然ない。しかし、わかるものか、誰かがきっと見ているのだ……。
 少女は目を大きく開いて私を見つめていた。少女の瞳は美しくなかった。その何ともいえない動物的なまなこがぞっとするほど気にくわなかった。
 暴行は瞬聞的に起こるものであろう。しかるに、私はこの魔の瞬間を取り逃したのだ。私がぐずついている間にその瞬間が去ってしまつたのを、私ははっきりと悟った。
「ケサ・ムシブ!」(心配するな)
 この時、私の口からついて出たのは、私が知っているいくつかのビルマ語のうちの一つであった。そして私は退出した。
 その子の親は現われなかった。そこらあたりをうろついてもいなかった。
 外に出てみると、遠くに忙しく走り去る兵士の後尾が見えた。私は隊列に追いつこうと走った。
 おそらく私が、少女のヌードの前でたじたじとなり尻尾をまいて逃げた、と言っても誰も納得しないだろう。
 公路近辺の民家は真っ昼間に落雷に出会ったようなものであった。どの程度の略奪と暴行が行われたかは誰も知らない。兵士らはみなしらを切っていた。
 われらはひとり残らずふたたび集まり、小村軍曹を先頭にして行軍を続けた。

 佐田=田村では「そとからふと聞えたあるなにかの気配」があったが、李佳烔には師から与えられた「オーム アラナヤ……」の真言があった。それは、「金進士翁」が「経文を身に持し真言を唱えれば、いくら危地でも、事無きを得るのだよ」と「何度も言い聞かせ」て教えた「オーム アラナヤ フーム バタク」の一部で、李はその「金剛経文」を「尻拭き紙に使って捨てた」が、しばしば唱えていた(『怒りの河』一二〇~一二一頁)。そして幾度も危地を脱しているため、彼は「死ぬことのないように呪われているのではないか。死ぬことになっている人間にくらべて、もっと痛い目に遭わなければならないのではないか」と感じている。これも見事な自己分析である。

(四)金春子の記録
 金春子は「ケイオー大学を出」た分遣隊の隊長は「東京の有名なお菓子屋の一人息子」で、「日本では有名な野球の選手だったらしく」、「とてもきれいな映画女優と婚約して」いるらしいので、「女の人には絶対に触れない」と記している(本書第四章参照)。

(五)品野実の経験
 品野は「古兵」に連れられて慰安所に行き、コンドーム「突貫」を「大事に」しながら「巻脚絆を解いた」が、「現れたのは混血の見上げるような色黒の大女」で「巨大な乳房を揺すってウインクした」のを目にして「とたんに意気込みもしぼみ、とっさに靴を抱えて外に飛び出した」(『異域の鬼』二八頁)。そして「放心」して古兵を待つなかで、「彼方に光る望郷の海」を眺め「つい不覚の涙」を流した。

(六)古山高麗雄の経験
 古山は「身持ちの堅い人間でもなければ、清潔な性格の持主でもない」と自覚するが、「あのようにしつらえたものに同調でき」ず、「マスターベーションで性欲を発散していた」と述べる(『兵隊蟻が歩いた』文春文庫、一九八二年、二〇一頁)。類似の方法は、曖昧な表現で聞いたことがあるが、それが文献として確認できた。

(七)木佐森恒雄の経験
 木佐森は「眉目秀麗な青年将校」広瀬少尉とビルマの美少女テイ・テイ・サンがお互いに好意を抱いていることを知っていた(『崩壊す・ビルマ戦線』一三一~一三三頁、以下同様)。少女がマラリアにかかった。木佐森は症状を診に行くと「少女はすやすやと眠っていた」。彼は次のように述べている。

 日本の女の子にもこんなに美しい顔はみたことがないと思った。……私は思わず顔を近づけると、その赤い唇にそっと触れようとした。そのとき少女は、ふっと眼をひらいた。そして、私の顔をみてほほえみながら、少女は「アリガトウ」と、眼を大きく見開いてつぶやいた。

 「そのうちに」少女の母親、そして広瀬少尉もやって来た。何事もなくすんだ。彼は、自分の主体性ではなく、客観的条件により、倫理的な逸脱を回避できた。

第二節 人間化の努力
 池田は「それにしても不思議なのは、このような戦争体験をした兵士たちが、戦後の日本にすんなり順応してきた事実である」と述べる。彼女のレベルだから「不思議」としか感じられないと言える。しかし、戦時性暴力を犯した兵士もいれば、そうでない兵士もいた。前者を繰り返した兵士の末路を、田村は「失われた男」で描いており、それは人間性の自壊と言える。
 たとえ後者でも「すんなり順応」した者は、私の調査ではいなかった。みな多かれ少なかれトラウマを抱えて生きてきた。戦争体験を全否定することも、戦後の民主主義や平和主義を全否定することもなかった。表現は庶民的であったが、一面的な思考に陥らず、体験に基づいて現実的に多角的に戦争と平和を考えていた。従って「すんなり順応してきた」というのは「事実」ではない。以下は、私が収集した情報の中の三つの事例である(「『アイデンティティと戦争』補論」(『社会教育学研究』第二一号、二〇一一年四月)に修正加筆。

第一項 人間性の保持
 中支―山西省に出征した元兵士Aは孫に「殺された側が、誰が殺したのかを覚えているのかは分からんが、不思議と、残酷なことをしたものは、たいてい戦地で殺されてしまっている」と語った。小津のいう「一概に因縁噺として片づけられないもの」を考慮するが、ここでは敵地で怨まれた者は危険性が高まることも指摘しておく。逆に、敵地でも、怨まれず、逆に親しまれれば助けられる場合がある。次に、それに関する証言を紹介する。

第二項 人間としての意思疎通
 元下士官Bは病床で次のように語った(当人との約束で元下士官以外の個人情報は控える)。

 後ろで威張り散らして、いざというとき部下を見殺しにするような上官より、中国人の庶民の方が、心が通う気がした。だから、同じ庶民だからと、できるだけ仲良くしようと思った。もちろん、油断もしなかった。隙があれば罠にかけられる。それでも、片言の中国語や日本語でやり取りするのが性に合った。「メシ」が一番だった。こっちも向こうも腹をすかしていた。それに、心が通えば、向こうはそっと危険なことを教えてくれた。そんなことをしたら、同じ中国人から日本兵を助ける裏切り者だとやられるから、周りに気づかれないようにして、目配せしたり、首を振ったりして教えてくれた。それでいうとおりにして、何もないことが幾度かあった。何もなかったから、あれが正しかったかどうかなんて確かめられないが、こっちは何しろ無事でいられた。それで十分だ。だから、知らせてくれた中国人には感謝している。その時の目配せなんかは今でも憶えている。
 中国人と仲良くしたなんてことを言えば、「だから負けたのだ、非国民め」などと言われるから話してこなかった。ただでさえ「自分だけ帰ってきやがって」と思われてきたんだ。でも、あんたは分かってくれそうだから話す。看護婦さんもいい人だから、頼みを聞いたのだ。それにおれはもう長くはない。もうおれは何と思われてもいいが、家族がいるから、やっぱりおれの名前は出さないでくれ。

 この元下士官を紹介した病院関係者は、他に寝たきりで意識が朦朧とした状態で“天井から血が滴る。壁に血まみれの顔が現れる。窓の外から叫びが聞こえる”などと苦しむ者たちもいたことを教えた。これに類似の情報は他からも得た。その過程で、私の幼少時、父が、夜中に時折、寝ていて突如ものすごいうなり声をあげていたことを想い出した。それは寝ていた私も母も起こされるほどであった。“どうしたんだろうね”と顔を見あわせるが、訳が分からず、苦しくてうなされているようではなかったので、そのまま再び眠ったものであった。研究を踏まえて推論すれば、父は心の奥底に抑え込んだ死の覚悟と不可分の本能的な恐怖や、覚悟したにも関わらず生き延びた無念をうなり声で発していたのかもしれないと考える。
 なお『アイデンティティと時代』一九~二〇頁では父を「通信兵」と述べたが、その後さらに調べると飛行兵でもあったことが分かった。それでは何故、父は「通信兵」としか言わなかったのか? それは以下の経験のために慎重になっていたと推論できる。
 父は復員後、一九四六年四月に青年学校「指導員」となったが、翌五月、マッカーサーの「パージ」、「進駐軍の命により教職追放」された(「」内は父の表記)。父はこのことに一言もなく、遺稿の短歌から知った。母も知らなかった。
 その後、「再教育」の「講習」を受け、民主主義に「適格」と評価され、中学校教師に復職した。それを父は「洗脳」と認識していた。以下は父の短歌である。

 教職のパージは無情 マッカーサー チョークをおきて バイバイしたり
 洗脳の再教育の講習で適格なりと判定書受く

 元特攻隊の意地がうかがえる。それでも「パージ」、「追放」の辛さを身にしみて体験しており、特攻隊員=軍国主義者というラベリングに注意していたと言える。

第三項 慰安―人間的な生へ保持―
 戦闘行為とは言え、殺人が人間としての心理に与える影響は激越である。その暴力的な刺激は心に深く、鋭く刻まれる。多くは体の震えを止められず、甚だしくは狂乱、狂騒状態になる。さらに、殺された者の断末魔の形相や苦悶が忘れられず、それが亡霊のように想起され、つきまとい、悩ますことが多い。そうでなくとも、この刺激が忘れられないことは変わらず、むしろ同じ刺激を求めて繰り返そうとする(サディスト、殺人鬼になる)。
 亡霊を作り出し、それに悩まされるという心理を非合理的だと軽視すれば、その心理を理解できないからである。たとえ、気を強く持って、懊悩を抑圧し、意識しないようにエスの深層に抑え込んでも、眠れば超自我が弱まり、夢を見、その夢に亡霊が現れる。また、疲れなどで意識が弱まると、白昼夢を見て、そこにも亡霊が現れる。絶えず緊張して、眠っても夢の中で亡霊の出現を押し殺せば、ストレスになり、それが蓄積すると押しつぶされる。こうして心理が荒廃し、人格が崩壊していく。
 これへの対処は、大きく二つ考えられる。まず信仰である。宗教を前近代的な迷妄と見なすのは浅薄で、人類が未熟で野蛮な段階において戦争が繰り返される状況の内にあって、何とか人間性を保つためには宗教の救いが必要かつ重要であった。これは文明社会でも、不測の事故で愛する者を失った場合でも同様である。例えば、自動車がスピード違反、運転手の不注意など因果関係が合理的に説明されても、“何故、他ではなく我が子が”という苦悩は納まらない。
 もう一つは、本能的である故に本源的な「慰安」である。男性にとっては女性の暖かな肉体による安心と快楽が挙げられる。これにより理屈抜きで救われる。慰安婦は、まさに信仰心が薄れ、或いは形骸化した近代における兵士にとって必要かつ重要であった。これは豊かな社会における売買春と異なる点である。娼婦やセックス・ワーカーは性慾の発散に応えるという次元であり、確かに慰安婦でもそうだが、それ以上に本源的な「慰安」を与えることもあった。これにより、兵士は、たとえ短時間でも自分が人間として生きていることを心身で感じ、人間性を保持することができた。そのような関係性において慰安婦と兵士の間で愛が育まれた。

第四項 浄化―人間的な生への復帰―
 元兵士Cは「村に入る前に神社の御堂で一週間ほど過ごした」と語った。私が「みそぎですか」と尋ねると、「そんなもんじゃないけど」と答えたが、口調や表情は肯定的であった。彼は身も心も浄めて村に帰りたかったと私は察した。神社の御堂は村はずれの山にあった。これを迷信と決めつけるのは浅薄である。日本の伝統的なトラウマ対処法であり、民衆の実践知と言える。
 現在、平和構築・維持や人道的介入で戦った兵士や要員が戦地から平和な市民社会へ復帰する所謂「戦争の出口」のあり方が課題になっている。帰還兵にとって、時間的には戦時から戦後へ、有事から平時へ、空間的には戦場から後方へ、平穏な日常生活へ、そしてアイデンティティは兵士から市民(退役軍人)への変化がスムースに進むための支援が求められる。それは限界状況からの解放だが、極度のトラウマ、緊張感、闘争本能、防衛本能の心的慣性は決して軽視できない。それは深層に潜み様々に作用する。その根深い心因を解きほぐすことが求められる。ここでは試みに「浄化(カタルシス)」と表現しておくが、それを教育学、心理学、社会学など多方面から研究することが求められる。デューイの経験の「再構成」、宮原の「再分肢」教育を応用すれば、解体と再構成による「人間化」となる(『平和教育の思想と実践』第二章、第三章等)。

第三節 心に刻み伝える課題として―「恨」を乗り越える愛―
 心理歴史的に人間の存在の追究をさらに深め、より深層の根本的な問題を析出し、それに基づいて「恨」などの心理歴史的な問題を解体し、愛を鍵概念にして人間的なかたちで再構成すべきことを提起した。取りあげた事例は少数だろうが、例外ではない。このような非人間的状況の内でも人間であろうとする努力の崇高な現象形態の一つに慰安婦と兵士の愛がある。いつ死ぬか分からない=いつ死んでもおかしくない者を愛する。無数の将兵の性慾の処理を強いられる者を愛する。それは尋常なことではない。故に、少数例であろうが、この意義を認識し、限界状況においてエロスとタナトスがグロテスクに暴走し、デモーニッシュな戦争犯罪を引き起こしたこと教訓にするともに、心に刻み伝えるべきである。必要以上に負に偏さず、負と正を止揚してこそ個人の発達と社会の発展が為されるからである。
 また「恨」を批判してきたが、それは心理歴史的に個人にも社会にも根深く存在しているという現実を認識する。だからこそ「恨」を解きほぐすことが重要であり、「ポストメモリー」などとして後代に引き継がせてはならない。それは、記憶(メモリー)を史実から乖離させ、或いは一面的に誇張させ、さらには政治的に利用させないためにも必要である。
 私はアクション・リサーチに則り、世代から世代への「世代のサイクル」において、根深い「恨」に正対しつつ愛を提起する。

結び・・・続く・・

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