慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究―結び(2020/6/29)

結び
 国連に加盟している日本は、その集団的自衛権(国連憲章第五一条)を有している。権利には義務・責任が伴い、日本はそれを果たさねばならない。その広義の観点において、積極的平和主義に則った平和構築・維持(peace building/keeping operations)とともに人道支援(humanitarian assistance)などで日本の国力に見合った貢献が求められている。それは国家の主権だけでなく人間の人権にも関わる(人間の安全保障:human security)。
 しかも世界情勢は緊迫の度合いを強めており、これらにおいてますます日本の貢献が求められている。人道支援より積極的な「人道的介入(humanitarian intervention)」が提唱されて久しい。これはかつてナチス・ドイツのチェコ・スロバキア侵攻、解体に対して米英仏などが宥和策で結果的に傍観した歴史を踏まえれば、軽視・楽観できない。ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人エリ・ヴィーゼルが繰り返し無関心を批判し、「介入」を論じる所以である(川田順造編/廣瀬浩司、林修訳『介入?―人間の権利と国家の論理―』藤原書店、一九九七年)。彼は「無関心と闘うことが絶対的至上命令」とまで提起する(「二つの世界大戦を超えて」『文藝春秋』二〇〇〇年一月号、二一六~二一七頁)。これは、マルチン・ニーメラ牧師(ルター教会)の詩として伝えられている「共産党が弾圧された/私は共産党員ではないので黙っていた/社会党が弾圧された/私は社会党員ではないので黙っていた/組合や学校が閉鎖された/私は不安だったが、関係ないので黙っていた/教会が弾圧された/私は牧師なので立ち上がった/そのときはもう遅かった」と通底する(私は丸山真男『現代政治の思想と行動』未来社、増補版、一九六四年、四七五~四七六頁で知った)。
 ところが、七〇年以上も前の歴史により、消極的にならざるをえないのが現状である。その要因には歴史の政治的な利用、そのプロパガンダ、これを助長する知の頽廃と衆愚状況がある。軍国主義を批判しているが、それは批判を見せびらかす批判のための批判である。
 そこには一人ひとりの心魂が込められた愛の看過もある。フェミニズムの性への偏向もある。だが、愛を無視して世界の平和を語ることは虚しく、甚だしくは偽善、欺瞞である。無論、愛を歴史の美化に利用してはならない。これに注意して私は愛による悲惨と偉大の弁証法を提出した。求められるのは、知の頽廃を凌駕する叡智、性への偏向を脱却する愛である。
 これは限界状況におけるアイデンティティ・クライシスをもモメントにして発達と学習を進める「徳=力」でもある。それは平和教育のみならず持続可能な発展/開発(sustainable development)、その教育(SDE)にとっても重要である。この考察は次の課題とする。

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