日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その17

35.教員の問題

(1)序

 田畑書店編集部は『私はこう考える―東大闘争・教官の発言』を1969年に刊行した。全共闘系の教員が多く、日本共産党・民青系はいないと見なす。持田栄一(「東大闘争と大学革新」を寄稿)は日本共産党系の多い教育学部の中で全共闘への共感を示したが、それ以上にはならなかった。「なぜいま授業再開を拒否するか」、「授業再開拒否の倫理と論理」を書いた折原浩については後で論じる。
 ここでは「あえてノンセクト・ラジカルに」、「永続的反抗の論理」を寄せた菊地昌典と同じ教養学科国際関係論コースの院生、「ゲバルト・ローザ」と呼ばれた柏崎(斎藤)千枝子の沈黙を切口に彼や同僚の衛藤瀋吉の問題に迫る。

(2)予備的考察・1―斎藤/柏崎千枝子の学問と実践

①ローザ・ルクセンブルク研究

 斎藤千枝子は結婚して姓は柏崎となり(後に離婚)、東大闘争では「ゲバルト・ローザ」と呼ばれ、大いに注目されたが、今は全く顧みられず、むしろネットでは揶揄されている。私は彼女は極めて純朴で、生真面目で、優秀であったと評価し、揶揄するのは、当人の下劣さをさらけだしていると捉える。この点で知の頽廃にも関連する(これも彼女の無言に理由と捉える)
 斎藤/柏崎は1962年4月、東大の文科Ⅲ類に入学し、64年4月、教養学科国際関係論コースに進み、ソ連・東欧を中心に研究し、66年4月、大学院修士課程に入学し、68年4月、博士課程に進んだ。ローザ・ルクセンブルクの研究も進め、「東京大学新聞」1968年6月3日号にパウル・フレーリヒ著、伊藤成彦訳『ローザ・ルクセンブルク―その思想と生涯―』(思想社、1967年)の書評を寄せる程であった。その見出しは「実践的なローザ像の現出」、「労働者階級こそ革命の主役」、「ローザへの偏見を論破」で、小見出しは「否定的歴史持つローザ評価」、「『悪しき政治主義』の脱却」、「農民の革命性指摘が論争点」、「ボリシェヴィキの立場の支持」、「実践の思想を生き生き描写」であり、その論旨は明瞭である。「悪しき政治主義」への批判は、後述する「党派性」への疑念に通じる。そして結びでは「ポーランド語の翻訳にかなり誤りがあり、また誤植が多い」と指摘している。彼女の力量がうかがえる書評である。
 ルクセンブルクはプロレタリア独裁をめぐりレーニンを批判し、「政府の支持者、或る政党のメンバーのみの自由というのは――支持者やメンバーがいかに多かろうと――決して自由ではない。自由とは、常に、思想を異にする者のための自由である(Freiheit ist immer die Freiheit des Andersdenkenden)……『自由』が私有財産になれば、その働きは失われるのだ」と論じた(獄中で書かれた「ロシア革命」。版は複数。ここでは清水幾太郎訳「ロシア革命論」『ローザ・ルクセンブルク選集』第四巻、現代思潮社、1969年、p.256)。だが彼女はカール・リープクネヒトとともに虐殺された。ハンナ・アレントは二人が「当時権力の座にあった社会主義政権の眼前において、おそらくはその黙許のもとに殺害された」と述べている(阿部斉訳『暗い時代の人々』ちくま学芸文庫、2005年、p.59)。この社会主義政権は、当然、共産党、レーニンと関係がある。そして後のソ連における大粛清を考えれば、アレントの指摘の意味は深長である。
 ここから、私は斎藤/柏崎がルクセンブルクからアレントへと研究を進めたらと思う。

②全共闘の活動家として

 彼女は東大オーケストラでバイオリンを弾く一方、共産主義者同盟(共産同、ブント)下部組織の社会主義学生同盟(社学同)ML派(彼女は「ML同盟」、「解放戦線」と表記)に加わり、全共闘の一翼であった全闘連(大学院生の共闘組織)の赤ヘルメットをかぶり闘った。ゲバ棒を振るったか否かは不明である。
 既述したように、ML派は名称ではマルクス・レーニン主義を表しているが毛沢東主義を選んでいた。
 彼女は4月22日に逮捕され、5月10日に起訴され、第一回公判が6月16日に開かれた。その間、彼女の手記を中心とした『太陽と嵐と自由を―ゲバルト・ローザ闘争の手記』がノーベル書房から1969年6月24日に出版された。だが寡聞ながら、その後の彼女の言動は知られていなく、これは「ゲバルト・ローザ」と称される程の闘士というイメージとは余りにも対照的である。しかし、何も語らないということが重要なメッセージになっている。そして『太陽と嵐と自由を』を熟読し、熟考すると、その理由を推論することができる。
 彼女は「子どものころから政治には強い関心を持ち」、東大闘争において「ML同盟および解放戦線の同志諸君」の「問題提起」により「プチ・ブルとしての自己を、東大生としての、優等生としての自己を根本的に否定し、真に労働者階級を中心とする人民の一人として、自分の一生を革命運動に賭け」ようと思った(『太陽と嵐と自由を』「私の曲がり角」のpp.64-65)。
 確かに、彼女自身は学生・院生という「プチ・ブル(広義)」であるが、彼女の父は戦前からの裁判官であり、階級的には「プチ・ブル」というより権力装置の高官である(治安維持法による政治的思想的弾圧の裁許は典型的)。これは基本的なことであり、彼女のマルクス主義、ルクセンブルク研究が問われる。
 とは言え、彼女は「ML同盟と解放戦線」を繰り返しており、それは党ではなく、その下部組織である。謂わばソ連共産党における非党員アクチブ(アクチーフ)、中国共産党での非党員積極分子に相当し、党員としてのマルクス・レーニン主義、毛沢東主義の理解を求めるべきではない。
 次に取りあげるエピソードは(『太陽と嵐と自由を』pp.240-242)、生活の一切を党活動に捧げる「党生活」からみれば問われるが、やはり彼女は党員ではないことの現れと言える。また、食事をつくるのが女性で食べるのが男性のという性差別的役割分業のハビトゥスもあるが、むしろ暴力的な闘いの中でもしっかりと保っていた人情味もある。

 (柏崎たちは)高田馬場の西友ストアに、買い出しに行った。たくさんの人数のために料理を作るのだから、膨大な量の材料が必要になる。三人は大きな風呂敷や入れものを用意して行った。
 師走の町はあわただしかった。バリケードの外にしばらくぶりに出たので、巷の様子に一瞬、めまいを覚えた。いちどに年の暮れが私の回りに集まってきたようだ。西友ストアに着くと、案の定、主婦や若い女性で店内はいっぱい。ふたりの男性はこの情景を見て、辟易した様子だ。
「将来の奥さん孝行のために、今から訓練よ。これくらいのことで驚いてちゃ、いいお嫁さんはもらえないわよ」
 と、私は軽口をたたいた。ところが、
 「柏崎さんみたいな奥さんはもらわないから大丈夫ですよ」
 と、小憎らしいことを言う。
 冗談を言い合っていても、仕事のほうにとりかからなくちゃと、混雑した店内にもぐりこんで、三人とも必死の覚悟で、カゴを持って押し合いへし合い、おでん、なます、田作り、きんぴらごぼう、煮しめ、お雑煮、お汁粉などの材料を、山のように積み上げ、やっとの思いでひと通り買い終えたころには、クタクタに疲れてしまった。
 「買いものをするってことは、命がけなんだな」
 「女の人も結構たいへんなんだなあ」
 などとA君とU君は殊勝げなことをいって、妙なことに感心していた。
 第八本館へ、この買い物の大きな荷物をかかえてもどると、休む間もなく調理場に入る。なにしろ四十人分を三、四人の女性が作るのだから、なまけていては、大晦日のパーティーが、元旦の夜明けになってしまいかねない。Yさんにはお汁粉、なます、酢ばすを頼んでから、三階のガスを使って大きなボールにおでんを煮込む。四十人分のおでんはいったいどのくらいの量があればいいものなのか、まったく見当もつかない。ともかく大根と里芋をゆで、だしをとって味つけをし、トロ火で煮始めた。すると、三階いっぱいに、おいしそうなにおいが漂っていったらしく、あちこちのへやから顔が出てきた。
 「何を作ってるんですか」
 「いつごろ食べられますか」
 という質問はまだいいほうで、あげくの果てには、
 「ちょっとつまみ食いをやらせてくれませんか。腹減ってるものですから……」
 と、折衝に来る者さえ出る始末で、まったく笑ってしまった。
 家にいれば、たらふく食べられるし、若い年齢がそれを要求している。それなのに、貧しい闘争の中では、毎日インスタントラーメンと、パンとみかんくらいで、がまんしていたのだから、無理もないだろう。“つまみ食い志望”の者も含めて、みんなのご要望にこたえるために、食事係の男性が、
 「本日午後九時より、年越パーティー。うまいものたくさんあり、酒もあります。乞御期待!」
 と食堂の入口に張り出した。
 八時には配膳を始めた。“腹の虫よ、もうチョット待ってちょうだい”である。おせち料理と、おでんを盛りつけ、お酒は茶碗でやってもらうことにする。食事係のひとりが、「できたわよっ!」ひと声高く叫ぶと、三、四階から、皆が飛ぶようにしてやって来る。一同そろったところで、Kさんの音頭で乾杯し、パーティーが始まった。たちまち、おでんのお替わりの注文が出る。早い者勝ちだから仕方がない。

 ここから若者のキャンプのような楽しい雰囲気も伝わってくる。
 その後、三週間も経たないうちに本郷キャンパスの安田講堂は「落城」し、そしてなおも徹底抗戦という駒場キャンパスのこの第八本館もバリケードが撤去された。
 この第八本館は、機動隊ではなく、共産党・民青により「落城」した。大学の自治を守るため学生自身の封鎖解除が理由であった。
 それを指揮した川上だが、彼は三年後に「新日和見主義」のレッテルを貼られ党内で失脚した。そして彼に関わる歴史も封殺されつつある。
 学生運動が最も昂揚した1960年代は「夢のまた夢」で終わるか、それとも重要な教訓とするか? 私は声なき声に耳を澄ます。

(3)予備的考察・2―柏崎の利用―全共闘における低水準な俗物―

 まことに低水準な俗物も全共闘にいた。鹿島茂は『太陽と嵐と自由を』を「ゾッキ本」(バーゲン本)と見なすが、全共闘の闘争資金獲得のためと称して活動部屋に山積みされた『太陽と嵐と自由を』を販売しようと考えた(「街頭で『ゲバルト・ローザ闘争の手記』数百冊を売りつくす」Web版「有鄰」第462号、平成18年5月10日)。これ自体が、価値のない物を騙して売るという搾取より悪質な詐取の行為だが、それへの自己批判/否定はない。ただし、私は『太陽と嵐と自由を』は価値が高いと見なしており、鹿島はそれが分からず、さらに資本主義を批判しながら詐取し、また自分たちが批判する書籍を多数が読むようにして、それらへの自己批判/否定がないという重層的な問題を指摘しているのである。それは思想と言うには余りにもお粗末な自己中心的ご都合主義である。この提案に対して、次のように仲間は問い、鹿島が答える。

 おい、本気かよ? これ、ひどい本だぞ。 もし、柏崎千枝子が本気でこんなことを言っていたとすると、柏崎千枝子というのは大馬鹿としか思えない。 こんなヤツに全共闘の代表づらされたら大恥だぞ。 それを売るというのはどういうことだ?
 そんなことなら、『ゲバルト・ローザ闘争の手記』に目を通したことのある私とて先刻承知していた。

 鹿島の仲間も同レベルである。そもそも柏崎は手記の出版に対して「われわれの闘争を『商品』にされたくない」ので「ためらった」のであった(p.60)。さらに、柏崎は後述するように闘争に関して「わからない」と述べる自覚もあった。
 それでは、鹿島たちは分かって、彼女は分からなかったのだろうか? 私は、鹿島たちは、ソクラテスが知っているというが実は知らないと明らかにした類であり、むしろ「わからない」と自覚した柏崎こそ無知の知をわきまえていたと評価する。
 また鹿島は「ゲバルト・ローザ」の「人気を当て込んで、際物出版で有名だったノーベル書房が聞き書きで出版した本、それが『ゲバルト・ローザ闘争の手記』だった」というが、単なる聞き書きではないことは一読すれば分かる。さらに山本義隆や今井澄の文章も収録されている。それ故「聞き書きで出版した本」という記述は誤りではなく誹謗と言わざるを得ない。
 さらに、たとえ柏崎が受けとる気持ちはないといっても、売り上げは彼女に渡すべきで、それでも受けとらないならば活動資金とするが、彼女は法廷闘争を余儀なくされており、それに充てるべきである。しかし、それがなされたとは言えない。道義にもとると言わざるを得ない。
 そもそも柏崎は、渡辺正典宛、1969年6月1日付「おわりに」で「駒場のジャンヌ・ダルク」、「ゲバルト・ローザ」と称され、マスメディアでも使われていたことに「閉口」していた(『太陽と嵐と自由を』pp.366-374)。そして「この本」を「いわゆるML同盟と解放戦線の意図的な党派宣伝のために」書いたのではないと注意を喚起している(同前、p.372)。このような柏崎を、鹿島たちは全く理解できず、それにより自分の愚妹を自らさらけ出している。

(4)予備的考察・3―柏崎の自己分析と「党派性」への疑義

 彼女は「いわゆる党派性というのは何であるのかさえ私にはほんとうのところまだわかっていない」と誠実に書くとともに、日比谷野外音楽堂で開かれた集会で中核派と社青同解放派が論争について「党派闘争自体を否定するものではないが、このような大衆集会の席上で、集会そのものを成立させないようなやり方には疑問を思った。(略)大衆そっちのけの党派闘争など、まったく意味がないと思った」と述べている(『太陽と嵐と自由を』p.100、以下同様)。さらに、彼女は「どちらかといえば中核派に親近感をもっている」と自覚しながら、中核派と社青同解放派の論争を「例によって反戦青年委員会のヘゲモニー争いだ」と見なしている。
 そもそも、このような論争は、それぞれが真理や正当を思うことを投げ合うような神々の争いの類いで、彼女の判断は妥当である。だが彼女は革命のためには前衛党が必要であると信じており、この信条と現実に挟まれて「わからない」と素直に述べているのである。それは的確な自己分析とも言える。
 さらに前述の対立に革マル派が絡み、しかも内ゲバが起きた。彼女は「明らかに中核のほうが優勢だった。経験の差が歴然とあらわれていた」と述べる(p.102)。この解釈について、私が収集した情報を踏まえて附言すれば「経験」というより組織力と訓練の「差」と捉え直すべきである(革マル派にも中核派と同程度の「経験」があった)。なお、ゲバルト=暴力の力量に関する両派の差は、私もしばしば聞いており、彼女の「歴然」という評価は主観的ではない。
 結局、内ゲバのため集会が「破壊」された。そのため、彼女はこの事態について問題提起すると、「学友」の「Oさん」は「党派には、われわれのわからない、いろいろなむずかしい問題があるんだ」と答えたが、彼女は「賛成でき」ず、「党派と大衆との関係は、決してそのように遊離したものであってはならず、あくまでも有機的に結合していなくてはならないし、もしそうでない党派が、大衆と遊離していることで自らを“前衛”などと呼ぶのだとしたら、そんなものは“前衛”でも何でもない」と考えた(『太陽と嵐と自由を』pp.102-103)。やはり妥当であると、私は評価する。「党派性」について、私もいくつか説明されたが、結局は自分の党派が正しく、他は誤っているというセクト主義であると考えるに到った。彼女と議論したいものである。
 さらに彼女は「喚声をあげて、こちらへ走ってくる革マル派の姿をひと目見たとたん、私は思わず自分もなぐられるような気がして恐怖で横っとびにスッとんでいた」と書いている(『太陽と嵐と自由を』pp.101-102)。これも革命的闘士のイメージには合わないが、むしろ自分を美化せず、正直に記述したことを評価すべきである。
 さらに彼女は「私たちはいい加減いやになったので引き揚げることにし、途中、有楽町近くの喫茶店で休」み、彼女は「アイスコーヒーで喉をうるお」し、11時過ぎに帰宅した。夫が帰ると「クッキーとイチゴ・ミルクを食べながら、きょう一日ことをいろいろと話し合った」(以上『太陽と嵐と自由を』p.103)。「話し合った」内容は未詳だが、その如何に関わらず、喫茶店、アイスコーヒー、クッキー、イチゴ・ミルクは「プチ・ブル」と見なされやすい。彼女はそれを自己批判しているが、自分が当然と思っている日常生活まで問い直していない。当然、自己批判は徹底されていない。

(5)予備的考察・5―柏崎にとっての重要な他者

①山本、今井たちとゲバラ

 柏崎は東間、佐竹、今井の名を挙げ率直に敬意を表し、「私という人間はこれら多くの人々の苦しい闘いの発展の上に作り出されてきた」と自己分析している。さらに、山本を「心から尊敬」し「無限の親しさを感じて」おり、また「菊屋橋一〇一号(黙秘を貫徹したため通称)」を「大学入学以来、あるときは畏怖の念をもって、またあるときは強い親しみをもってふり仰いできた」と述べている(『太陽と嵐と自由を』★)。
 ここで今井澄についていえば、彼はML派の中心的な存在で、の今井澄は東京拘置所から1969年4月9日付の書簡で「獄中からのアピール」を寄せ、その中で「新たな立場にたっての学問研究の再編成」は「中国において展開されているプロレタリア文化大革命の指向する方向にそって行われねばならない」と提起している(『太陽と嵐と自由を』★)。彼は安田講堂「攻防戦」では防衛隊長を務めた。山本議長は自分も死守を希望したが、その後の組織防衛のため東大構内から去ることになり、今井が事実上の現場指揮官となった。このような活動家であったが、それ以前、共産党・民青側の現場指揮官たる川上が医学部近くを歩いていて全共闘に拘束されたとき、今井は「川上か。なら放してやれ」と指示し、川上はゲバルトを振るわれなかった。このような人格を柏崎は感じとっていたと私は考える。
 先の引用文に戻ると、その結びで、柏崎はチェ・ゲバラの「われわれ青年共産主義者は、本質的な意味で人間的であらねばならない。……」の文言を引いている。ルクセンブルクの文言ではないが、毛沢東主義を打ち出していたML派としてはルクセンブルクよりもゲバラの方がいい。
 ルクセンブルクはレーニンを批判した。ゲバラは、当時、イメージとして毛沢東主義と呼応していた。確かに、キューバ共産党は対米関係で中国共産党よりソ連共産党の方が頼りになるため(中国は領土や人口では大国だが発展では途上の段階)、後者を選んだ。そして、ゲバラはキューバの党・国官僚制から脱してゲリラに身を挺したが、キューバの体制は批判していない。だが、プロパガンダのモデル、イメージは、そのような政治外交の現実と関わりなかった。学生運動のレベルでは尚更だった。

②ゲバラの再検討

 ゲバラのイメージについて、「赤いキリスト」という側面から「自己形成の自己分析の自己分析のために(5)―沈黙に耳を澄ます―研究ノート―」(『社会教育学研究』第50号 2020年1月)で論及した。その後の研究により、ゲバラが「愛」や「道徳」を語りながら、人間を殺傷した(戦闘でだけでなく粛清でも)問題についてより重視すべきと考えるようになった。彼は国際共産主義運動のプロパガンダで利用され、それは毛沢東主義の「政権は銃口から生まれる」、「革命無罪」と共振したことは軽視できない。
 確かに、キリスト教界においても、十字軍のみならず、近代でも著名な牧師、神学者のディートリヒ・ボンヘッファーはヒトラー暗殺計画に加担した。「汝の敵を愛せ」(マタイやルカの福音書に記された「山上の垂訓」の一句)を浅薄に理解してはならない。ヒトラーを「愛し」て、ホロコーストを黙認すれば、無数の無辜の人命が失われる。ボンヘッファーは、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」(「マタイ福音書」26章52節)のとおり、殺人は悪であり、神に裁かれることを自覚していた。しかし、隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が、当時のような限界状況には必要であるとも認識した。
 これは親鸞の「悪人正機説」と僧兵に通底する。極悪非道な暴力から大覚、大徳を守るためには、不殺生戒を敢えて破らねばならないと戦う。
 これらとゲバラは通底しているか? 米帝国主義はナチズムに匹敵する悪であったか?
 だが、ロシア革命や中国革命、ソヴィエト共産党や中国共産党の一党独裁体制による犠牲や被害はナチによる義性・被害を上回っている。だが、それは過小に評価されている。これはソ連・ロシアや中国が大国であるためみならず、革命をめぐる思想・イデオロギーの歴史によると考える。そして後者に関して、カントが定言命法の基づく「永遠平和」の名で説いた暴力革命と民主独裁、自由・平等・博愛を謳ったフランス革命におけるテロと恐怖政治にまで遡る革命論、その端的な表現としての「革命無罪」を根本的に再検討しなければならない。その中に全共闘運動の「ゲバルト」も含まれる。
 この点を私は『「わだつみのこえ」に耳を澄ます』で論じたが、ここではさらにハンナ・アレントの「フランス革命は法律は沈黙する(les loi se taisent)という言葉を生みだしたが、たとえば全体主義国家の強制収容所のように、暴力が絶対的に支配するとことでは、法律だけでなく、すべての物、すべての人間が沈黙せざるをえない」、「フランス革命という偉大な失敗」という認識を紹介して補強しておく(Arendt, Hannah, On Revolution, The Viking Press, NY, p.9.志水速雄訳『革命について』中央公論社、1975年、p.15、及びMen in dark times,★阿部齊訳『暗い時代の人々』ちくま学芸文庫、2005年、p.25)。そして改めて柏崎のアレント研究を望む(あるならば教示を願う)。

(6)予備的考察・5
 ―『太陽と嵐と自由を―ゲバルト・ローザ闘争の手記―』の後の沈黙に耳を澄ます―

 柏崎(斎藤)は、投獄の後、全共闘から離脱し、夫と離婚した。ところが、その経緯は、寡聞ながら未詳である。彼女自身が意見を表明したという記録は、現在のところ見出せない。彼女は沈黙し続けている。何故か? 分析を試みる。
 セクトの「党派性」についていえば、内ゲバが激化し、毛沢東主義(マオイズム)の影響が多大であった連合赤軍は1972年にあさま山荘事件を起こし、さらに次々にリンチ殺人が明らかになった。かねてから内ゲバに疑義を呈していた彼女にとって、これは重大であったと言える。それに離婚が加わり、公私にわたり彼女はと二重に失望したと推論できるが、それに止まらず、学問にも失望したと考えられる。この点について彼女が在籍した駒場の国際関係論の教員について検討していく。

(7)問われるべき教員たち―本論―

 国際関係論の教員には衞藤瀋吉や菊地昌典がいた。二人とも毛沢東主義(マオイズム)やプロレタリア文化大革命と関わり、さらに菊地は全共闘を公然と推奨していた。そして、ML派は毛沢東主義の立場を鮮明に打ち出していた。このような構造において、衛藤や菊地は院生の柏崎にとって直接間接に影響を及ぼしていたと考えることができる。
 それでは、衛藤や菊地はどうであったのか? 彼らについて検討していく。
 まず衛藤についていえば、東京大学近代中国史研究会は『毛沢東思想万歳』を訳出した(上下二巻、三一書房、1974-75年)。この東京大学近代中国史研究会の「世話人」は衞藤である。
 この原書は1969年に中国共産党体制において「内部学習」のために、毛沢東の講演速記録、会談記録、指示、評語、書簡などを編集した刊行物で、編集者や出版社は不詳である。その内容について「毛沢東主導『社会主義教育運動』における『殺人』に関するノートと資料―小川利夫「公民館三階建」構想と中国の文化宮の関連性の考察のために―」(『社会教育学研究』第45号、2019年9月)で論じ、特に「社会主義教育運動」、「四清運動」において「杀人灭迹(殺人と証拠隠滅)」を指示している問題を指摘した。まさに「内部学習」に止められている所以であるが、日本では公刊されてしまった。ただし、その訳にはわざわざ「徹底的に」と注記して意味を緩和させ、マオイズムの暴力性を糊塗している。
 そうではなく、批判していれば、ML派に影響し、連合赤軍の一連の事件も防げたかもしれない。衛藤たちの責任が問われる。確かに翻訳の刊行は1974-75年だが、東大の教員ならリアルタイムで知り得て、当然、院生も共有する。何故なら、東大にいるならば、専門領域で常に最高・最新の動向を把握し、過去の研究成果と比較し、評価選択する自負・使命が暗黙にあるからである。少なくとも私の助手時代はそう思わされていた。
 しかし、衛藤たちが「杀人灭迹」について注意したという記録はない(あれば教示を願う)。私は1973年に文科Ⅲ類に入学し、教養学部で衛藤の国際関係論を受講しが、毛沢東主義は全く話さず、むしろ保守的と思われた。日本語版『毛沢東思想万歳』の出版は翌年だが、既に1972年の連合赤軍事件から変化した時流に合わせたと解釈できる。研究会として進めたので止められなかったが、自分から進んで出版を知らせることはしなかったと言える(異論があれば教示を願う)。この解釈は、1989年6月4日の天安門事件(武力鎮圧は天安門広場と周辺だけでなく、全国的で「天安門」は象徴)の後、国際社会が経済制裁を行使したが、日本がいち早く脱落した(無防備の学生や市民を無数に虐殺した中国政府との協力・友好に転換)。そのために動いたのが竹下登、海部俊樹、牛尾治朗、笹川陽一、そして衛藤であったことで補強される(天児慧編『証言―戦後日中関係秘史』岩波書店、2020年、pp.270-271)。彼は中国共産党の体制と日本の体制という次元にいたのであり、そこから「造反有理」を呼号する毛沢東主義を翻訳・紹介したのである。
 また、菊地昌典(助教授)は、マスメディアの中で最も新左翼・全共闘を積極的に取りあげていた『朝日ジャーナル』1968年11月17日号の座談会「研究・教育の場の疲弊と復興」で発言していた。出席者は他に堀米庸三教授、最首悟助手、藤沢靖介院生、山本義隆院生、岸本誠(筆名)院生、平山基生院生たちで、同号p.114の出席者一覧では堀米教授、菊地助教授の次に波線が引かれ、最首助手と続き、助教授以上と助手以下を区別している。当然、これを差別と見なして『朝日ジャーナル』を批判することもできるが、そのような批判は記録されていない(あれば教示を願う)。
 これに止まらず、菊地は同誌1969年1月26日号で「あえてノンセクト・ラジカルに」を発表した。「ノンセクト・ラジカル」は全共闘と重なり合っており、彼は明確に全共闘を賛同・推奨していたのである。
 ところが、私は1973年に菊地の授業も受けたが、その内容は曖昧なスターリン批判と毛沢東賞賛を含む国際関係の現代史で、四年前に彼が全共闘を賛同・推奨したことなど全く思いもよらなかった。無論、私より全共闘や菊地について知っている者は、曖昧な表現から示唆を理解できただろうが、それは暗黙の合意の類いで、明晰であるべき大学の講義の本旨から外れる。
 私にとっては、高校時代に読んだ『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『さよなら快傑黒頭巾』で「毛沢東はエライんだ」と感じたことが、漠然と菊地の授業で学問的に再確認できたという程度であった。だが、その後、1990年代後半から文革などの実態を知り、これを改めるようになった。
 また、東大闘争について調べる中で「あえてノンセクト・ラジカルに」を知り、菊池が「体制内で反抗的人間として生きつづけていくためにはどうすればいいか。……生き方の軌跡でなければならない」という結びを読み、1973-74年の彼の生き方について考えてみた。私の周囲の残存していた「ノンセクト・ラディカル」は彼について全く語っていなかった。駒場の学生生活は大部分が二年間だけなので(教養学部後期課程以外は本郷の各学部に進む)、生き方を示し続けていなくとも、二年後はほとんどの学生が入れ替わり、問われるリスクは低減する。まだ全共闘の継承に努める「ノンセクト・ラディカル」が活動していたにも関わらず(むしろセクトの内ゲバは過激化し、殺傷事件が相次いでいた)、彼の授業では「授業を止めて討論の場にさせてください」などと発言する活動家は現れず(私の知る限りだが)、平穏無事であった。私の周囲の全共闘シンパで菊池について語る者はいなかった。
 確かに彼の著書では社会主義が主要なテーマとなっているが、「生き方」としてはどうか? また、ノンセクト・ラディカルが新左翼と同調し、ゲバルト(暴力)に荷担したことについて、どうなのか? ソ連東欧の大粛清、東欧諸国の民主化の武力鎮圧、中国の「大躍進」、文革、天安門事件など繰り返された暴力とその犠牲・被害については、どうなのか? しかし、早くも1973年では既述したとおりであり、まともな答は期待できない。
 以上から、柏崎は学問にも失望したと推論できる。

(8)補論

 折原浩は以下のように東大闘争について論じ続けてきた。
・『大学の頽廃の淵にて―東大闘争における一教師の歩み』筑摩書房、1969年
・『東京大学―近代知性の病像』三一書房、1973年
・『学園闘争以後十余年―一現場からの大学・知識人論』三一書房、1982年
・折原他『東大闘争と原発事故―廃墟からの問い』緑風出版、2013年
 このような彼に対しても、やはり「大学解体」やゲバルトの問題を挙げなければならない。それに加えて、彼が研究の中心をウェーバーに据えていたことも問われる。
 学生時代、私は“折原さんは何でウェーバーなんか研究しているんだ?”という意見をノンセクト・ラディカル系の学生から幾度か聞いた。そこには“逃げているのではないか?”という問いが内包されていた。
 頭のいい折原はそうではないと説明するだろうが(上記の著書等)、しかし“逃げているのではないか?”の問いかけには“王様は裸だ”の如き素朴で純な見方があったと私は思う。「大学解体」のためにゲバルトを振るう学生に賛同し、大学を批判するが、しかし、自分は大学に身を起き続けた。そのための保障としてウェーバー研究は利用できた。彼が如何に説明しようとも、その効用は否定できない。
 そもそもウェーバー社会学の鍵概念に「価値自由」がある。これは新左翼のセクト主義と対極的である。たとえ諸セクトがセクト主義を超えて全共闘を結成したと見なしても、日本共産党・民青や保守派との対立・闘争は続いていた。しかもウェーバーの「価値自由」に関する論考を読めば、それは何よりもブルジョワジーかプロレタリアートかなどと階級の立場を強調するマルクス・レーニン主義に向けられていたことが分かる。
 他にも全共闘に賛同した教員に三田や高橋がいるが、『アイデンティティと時代』などで論じたので繰り返さない。

(9)饒舌・達筆に優る沈黙―小括―

 以上の考察に基づき、彼女の沈黙は、他の多くの沈黙の象徴と考える。それは今も続く「全共闘」に関する饒舌・達筆よりはるかに重要である。そのような饒舌・達筆は、かつて呼号した「自己否定/批判」が如何に浅薄であったかをさらけ出している。何故なら、ゲバルトの暴力性に関する「自己否定/批判」がほとんどないからである。
 仮にゲバルトは闘争にとって必要不可欠で「批判」する必要がないとしたら、そのような闘争が敗北したことの「自己批判」が必要である。まだ闘争は終わらず、敗北していないというのであれば、半世紀かけても勝利していないことの「自己批判」が必要である。そもそも「全共闘」について語り書くが、最早、実践はない(全共闘は再建されていない)。以上から「自己批判」も実践もない饒舌・達筆と見なすのである。
 そして、このような饒舌・達筆よりも沈黙が優ると私は評価する。

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