日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その18

36.求められる総括

 佐々は「挫折した東大全共闘は安田講堂事件の総括をきちんとしていない」と指摘した(『東大落城』p.18)。この出版は1993年で、文庫化は1996年であった。それから十年後、ようやく島泰三が佐々に対して反論し、総括を試みた(『安田講堂1968-1969』中央公論新社、2005年、p.ⅰ)。彼は最後まで安田講堂に踏み止まっており反論する資格も権利もあるが、総括が遅れたのは否めない。だが、四年後に産経新聞取材班は『総括せよ! さらば革命的世代―40年前、キャンパスで何があったか』(産経新聞出版、日本工業新聞新社、2009年)を出した。
 繰り返し「総括」が問われるのは新左翼セクトにおいて「総括」が自己批判/否定の強制に使われ、甚だしくは連合赤軍ではリンチ殺人に結びついたからである。元々「総括」は労働運動や大衆運動で一定の闘争に区切りがついたとき闘争の総合的な評価を出すことを意味していた。それが学生運動にも伝わり、過激化し、ゲバルト(暴力)を伴うようになった。「きちんと総括」するためには、このゲバルトの問題と正対しなければならない。そこには体制という外に向けたゲバルトだけでなく、同じ新左翼の中での「内ゲバ」、さらに同じセクトの中のリンチ殺人もある。

 そもそも学生を指導すべき教員が総括していない。土居健郎は『「甘え」の構造』(弘文堂、1971年)で学生を批判し、それは的確だが、むしろ成人の教員にこそ「甘え」が問われると考える。教員と学生の「甘え/甘やかし」の構造に迫らなければならない。
 総じて教員たちは思想的イデオロギー的な流行に飛びついたと捉える。全共闘に関わる言説をマスメディアは取りあげ、さらに朝日新聞系列は持ち上げ、その時流に影響された教員がマスメディアを意識して全共闘のゲバルトを黙認・追認し、事実上甘やかし、それマスメディアでもてはやされ、舞い上がった。丸山真男は、次のように指摘する(『自己内対話―三冊のノートから―』みすず書房、1998年、pp.114-115)。

 これほど「反体制」の言辞がブルジョワ出版物に氾濫し、これほど「反体制」を標榜する評論家・大学教授たちが、そういった言辞によって原稿料をかせぎ、すくなくともペンによって生きること――もっと現代的にはテレビ・タレントとなって生きること――の容易な国があるだろうか。(中略)けれども「反体制」の言辞がこれほど氾濫しながら、「現実」をかえる力がおどろくべくないという日本の反体制思想運動の歴史的な問題性を自分の問題として考えないで、いい気になって、マス・コミの需要に応じて注文生産している「自由」評論家や大学教授によって、日本の「現実」がただの一インチも変革されないことだけはたしかである。

 だが、この批判は生かされなかった。成人となった全共闘世代は知の頽廃、大学の「レジャーランド化」を進めたが、その時に飛びついたのがミシェル・フーコーやピエール・ブルデュたちのポストモダンであった。
 フランスでは「五月革命」で大学改革が進んだとされるが、しかし、それで立身出世したフーコーやブルデュは洒落たレトリックで批判を売り物にした。二人はサルトルを批判するが、批判で人気を稼ぐ点では同様であった。
 そして、実際にはできず、いざとなったら逃げる「自己否定」や「大学改革」の空論は言説のゲームと形態を変えたが、流行に乗じる点では同じである。これでは「総括」などできはしない。

37.宮崎学の実戦感覚―「猥雑で混沌」の「躁状態」

 過激なゲバルト(暴力)は派手なパフォーマンスでもあり、それは多くのノンポリや野次馬を惹きつけた。その反応に喜び、活動家はますます過激になった。この推移について、新左翼・全共闘のゲバルト部隊と戦った共産党・民青のゲバルト部隊の隊長であった宮崎学は明快に要約している(『突破者―戦後史の陰を駆け抜けた五〇年』★南風社、1996年、pp.185-187)。それはあれこれ小難しい言葉の回想、手記、釈明、弁護より簡明である。
 彼は「マスコミは『暴力学生』と非難し続けたが、世間は面白がったり支援する面も多々あ」り、さらにリベラルで革新的に見せようとする「マスコミ」には慎重な表現だが「支援する面」を助長する論調まであり、「まさにハレの時代であり、世界中が極度の躁状態を呈して騒然としていた。猥雑で混沌とはしていたが、大波に押し上げられるような高揚感があった」と述べる。マスコミ批判は先述の丸山と同様である。また「ハレの時代」の認識についていえば、私は秋田にいた時期、六郷町の奇祭「竹打ち」が話題になった際に、「あん時、テレビさ見て、あぃゃー、おらほのとこと同じ祭さ、やってるだなぁなんて思ったす」等と幾度か聞いた。思わず笑ったが、その後しばらくして、意味が深長だと思い、宮崎の認識が妥当だと評価した。それらは現象形態だけでなく、暴力と歓楽の熱狂でも類似している。ただし、六郷町では祝祭として儀式化され、熱狂の中でも秩序が保たれ、それが終われば平穏な日常生活が戻る。しかし、全共闘運動では「造反有理」、「革命無罪」で歯止めがきかず、暴走した。政(まつりごと)の通り政治には祭りの要素があるが、それが酒神ディオニュソス/バッカスの狂宴のようになった。ヘーゲルは『精神現象学』の最初の序で「真実は全体であり、真実はバッカスの陶酔・譫妄のようである(Das Wahre ist das Ganze、Das Wahre ist so der bacchantische Taumel)」と述べたが、正にそれが暴力的に現象したのであった。

38.三島由紀夫の慧眼―「暴力とエロティシズム」の複合―サディズム

 暴力は、それを見る者を否応なく刺激し、反応させる。そして、この反応は青年の自己顕示欲を満たす。野蛮な慾望の次元において刺激~反応~刺激のサイクルが悪循環に陥り、暴力は激化し、慾望は膨張する。
 フランス革命ににおいてギロチンの処刑に対して大衆は歓声をあげていた。アレントのいう「偉大な失敗」のサディスティクな形態である。
 新左翼・全共闘のゲバルトについていえば、1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス教養学部900番教室で開かれた討論会で、「全共闘A」の「自己は最終極限形態において暴力にかけるといった場合、他人というのはに置かれるのか」という質問に、三島由紀夫は教室を埋めつくした者たち(学生やマスメディアなど)に向かって次のように発言した(『三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争―』角川文庫、2000年、pp.22-23)。

 私の大嫌いなサルトルが『存在と無』の中で言っておりますけれども、一番ワイセツなものは何かというと、一番ワイセツなものは縛られた女の肉体だと言っているのです。サルトルが『存在と無』の中で自と他の関係を非常に分析しておりますけれども、エロティシズムは他者に対してしか発動しないですね。(略)暴力とエロティシズムは深いところで非常に関係がある。(略)これが人間が人間に対して持っている関係の根源的なものじゃないかと思います。

 誰も異議を出さないので三島の見解は是認されたと言える。なお三島の武田泰淳との対談「文学は空虚か」(『源泉の感情』河出文庫、2006年)も参考になる。そして全共闘に対して暴力とエロティシズムを指摘したことについて、補強を行う。
 鈴木邦男は「早大全共闘の学生」に「民コロなんて人間じゃねえよ。日共のリモコン人形だぜ。好きなだけ殴らしてやるよ。何なら民コロの女、やらしてやるよ。民ころなんて殴りつくし、やりつくし、そして殲滅だよ」などと言われ、これを小熊は二度引用し「モラルの頽廃がひどかった」と評している(鈴木『がんばれ!! 新左翼 part2』エスエル出版会、1999年、p.42、及び小熊『1968』上巻pp.283-284、下巻p.814)。
 また、千田夏光は1973年出版『従軍慰安婦』の「おわりに」で、次のように述べている(引用は1984年刊行の講談社文庫版で、pp.262-263)。

 三年半ほどまえ、慰安婦について私が多少知っているという話を伝え聞いて、新左翼系女子学生がたずねて来た。C大学に在籍し、C派閥に属すると語っていたが、
 「新左翼系の男子学生幹部は“カアちゃん”と呼ぶ女子学生を持っている。これを持たないと派閥の中でも大きな顔ができないのです。そのカアちゃんは言ってみれば慰安婦なのです。中には三回も四回も妊娠中絶させられた者もいます。それでいて男子幹部は彼女らがそれに甘んじるのが革命的行為であると言い、カアちゃんたちもそれを信じているのです。間違っていると思いませんか」
 まるで私がその男子学生のように迫ってくるのである。彼女の言いたいのは“慰安婦”は死語でなく新左翼の中に生きているというのであった。彼女は派閥の全学連大会でそれを告発の意味をこめて熱っぽく訴え、私に応援してくれと言うのである。
 ここで私は考えた。もし彼女の言う通りなら、かつて自分もそのカアちゃんの一人だった、とまで告白する彼女の言葉に間違いがないのなら、旧軍と新左翼と共通するものがあるのだろうか。彼女によるとカアちゃんたちは連日のように慰安をもとめられたと言い、七〇年安保の激しいデモ戦の前後はそれもまた激しかった、と具体的な状態を口にしつつ語るのだったが、それは体験者が語る戦場の兵隊と慰安婦のそれとあまりにも似ていた。だが、さらに耳を傾けていくと、カアちゃんが慰安するのは特定多数、もしくは多数ではなく、相手は個人に限られているところが違っていた。
 これでは慰安婦ではないのではないか。警察用語でいう情婦ではないか。これに対して彼女は言うのだった。
 「精神において同じです。男の女に対する蔑視、差別、これが女を単なる慰安の対象にしてきたのです。軍隊の慰安婦もまたそれから生まれたのです」
 ある意味でこれは当たっているが、……」

 鈴木と千田の記録は三島が全共闘運動の本質を見抜いていたことの証左となる。
 なお千田は「情婦」と慰安婦は違うと考えるが、広義では現地妻や妾なども慰安婦と呼ばれていたので、女子学生の方が妥当である。

39.三島由紀夫の「聲」に耳を澄ます

(1)三島と全共闘の「討論」

 1969年 1月、新左翼・全共闘がバリケード封鎖した本郷キャンパスでは安田講堂など、駒場キャンパスでは第八本館などは次々に解除され、主要メンバーは逮捕か地下活動となったが、東大闘争は続いていた。5月 13日、全共闘と対極に位置しながらも三島は東大駒場キャンパス九〇〇番教室で東大全共闘の一部と「討論」した。一部というのは、前述のとおり主要な活動家は逮捕か潜伏で、公然と討論できた者はそうではなかったからである。
 三島についていえば、安田講堂「攻防戦」で敗北を喫した後にも関わらず、討論の相手としたところに三島の人格がうかがえる。彼は勝敗を超越していた。
 三島は全共闘との「討論」で「天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたっても殺す、殺すと言ってるだけのことさ」と述べながら、最終盤で「私は諸君の熱情は信じます。……ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じる」と発言した(前掲『三島由紀夫vs東大全共闘』p.111、p.119。以下同様)。確かに、木村修や小阪修平たちの発言、動作、表情などから、それはうかがえる(豊島圭介監督ドキュメンタリー映画「三島由紀夫vs東大全共闘―50年目の真実」2020年より)。
 これに対して、東大全共闘は共闘するか否かを問うたが、三島は共闘を「拒否」した。これに対して東大全共闘は何も為さなかった。前掲『三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争―』では「笑 拍手」となっており、三島との「共闘」を選択しなかったと見なせる。だが、壇上に「川上か。なら放してやれ」と指示した今井がいたら(先述)、別な展開になった可能性はある。
 例えば「熱情」という点に着目すると、三島や森田たちは決起のために市ヶ谷駐屯地に向かう車の中で「義理と人情を/秤にかけりゃ/義理が重たい/男の世界……」という「唐獅子牡丹」を歌い(鈴木邦男『がんばれ!!新左翼:「わが敵・わが友」過激派再起へのエ−ル』エスエル出版会、1989年、p.143)、安田講堂に立て籠もった全共闘が「もっとも好んだのは『唐獅子牡丹』だった」という(前掲『安田講堂1968-1969』p.319)。確かに呼応が認められる。
 私は初めは「何だ?」と呆れたが、年を重ねるに従って、評価を改めた。全共闘のパトスは哀惜をもって認め、また三島が文壇や論壇ではなく、「楯の会」の若者たちを最後に選んだ心魂が分からねばならぬと考えるようになった。三島は、雄弁達筆ではなく、もどかしいまでに口はうまくないが、真摯で気概があり、知行合一に努める者を選んだ。そこに誠や真や信などを込めた「まこと」を私は認める。だからこそ、三島は「討論」に参加し、その結びで、「熱情」は信じると発言したのであった。
 だが、そのような学生だけではなかった。この点について次に述べる。

(2)赤ん坊を人間の盾にする卑劣

 登壇した学生に芥正彦もいた。彼から、私は「熱情」だけでなく“熱情を利用する”ことも見出した。これは文字だけではなかなか分からなかったが、ドキュメンタリー映画の映像から把握できた。
 芥は赤ん坊を肩車で連れて登壇した。それについて彼は何も説明しないが、まさに「人間の盾」に利用していた。これを指摘すれば、彼は様々に言葉を連ねて釈明するだろうが、それだけ頭がいい芥が、何も考えずに赤ん坊を連れ出したとは言えない。あどけない赤ん坊を三島に対して「人間の盾」に利用したと分析せざるを得ない。そのずる賢さは先述した四方田と同様である。
 この類いは1970年代半ばの見田ゼミにもいた。弁舌では「大学解体」、「自己否定」、そして「コミューン」を言いながら、謂わば見田を教祖のように崇め、おだて上げ、彼の文化資本のおこぼれでうまい汁を吸おうとしていた。

(3)全共闘運動の「ゲバスタイル」と三島の生と死を超越した「美」

 『三島由紀夫vs.東大全共闘』の副題に「美」が使われている。確かに、全共闘も三島も所謂“絵になる”。それ故、映画に取りあげられる。若松孝二監督は「実録・連合赤軍―あさま山荘への道程」(2008年)の後に「11・25自決の日―三島由紀夫と若者たち」(2012年)を、豊島監督は前掲「三島由紀夫VS東大全共闘」(2020年)を制作した。ただし、注意すべきは三島も全共闘も、謂わばところである。三島は作家として自己表現能力に卓両者の違いを認識し、全共闘に引きずられて三島を軽く見てはならない。三島の生の到達点としての死は極めて鮮烈かつ厳粛である(この点は後述)。
 全共闘には党派に属さない/そこまで勇気のないノンセクト・ラディカルも集まった。その中には流行に乗った野次馬もいた。そこからヤッケ、ジーンズ(適度にヨレヨレ)、タオル(覆面や催涙ガス対策のマスクになる)などの「ゲバスタイル」が現れた。それにヘルメットとゲバ棒が加わればセクトのゲバルト部隊になるが、そこまではしなかった(すれば他セクトの攻撃対象、機動隊の摘発対象になる)。ただし「ゲバスタイル」は、1970年代の当時、私の周囲では聞いたことがなく、その後の造語と思われる。
 なお、全共闘は中国の文化大革命の影響が多大だが、文革では紅衛兵の軍服スタイルが流行した(やはり適度にヨレヨレであると革命的=カッコよいと見られた)。
 しかし、三島は表面的な「スタイル」のレベルではなく、生と死の美に達している(その後、ポストモダンの流行においてフーコーを引いて「生存の美学」なる言説が現れたが、そのレベルでもない)。
 三島の美は彼が死を以て全うしたところに示されている。これは決して軽々しく考えてはならず、厳粛に熟考せねばならない。
 先に三島は勝敗を超越したと述べたが、彼は名誉も超越した。彼はノーベル賞の最終候補者に入っていたが、受賞など全く顧慮せずに割腹諫死へと突き進んだ。他方、サルトルは絶妙のタイミングで辞退を演出した(山田「三木清の生と死―聖の遍在(Allgemeine das Heilige)のもと時を生き死ぬ(zeitigen)」『大阪教育大学紀要(人文社会科学・自然科学)』第66巻、2018年2月を参照)。さらに大江健三郎はサルトルに傾倒しながら、ノーベル賞では彼と異なり受賞し、明言しないものの周囲がノーベル賞作家という肩書きを使うに任せている(あたかも君主は何も言わずに臣下や民衆が自発的に尊崇・賞賛するに任せるに類似)。三島はこれらをはるかに超えている。
 割腹諫死は、その実践である。それはは三島の生の美のみならず、それを超越した死の美であり、生の総括であると言える。如何に生きるかは如何に死ぬかであり、如何に死ぬかのために如何に生きるか努力しなければならない。三島は生と死を美においても一貫させた。山田風太郎は「彼は、彼の美学によって自分の死を創作した」と述べている(『人間臨終図巻』角川文庫版、上巻、2014年、p.309)。ところが、加藤周一は三島の死を「涸れつきたショウマンシップ」の「帰結」などと評する(加藤、ミッチェル・ライシュ、ロバート・リフトン共著、矢島翠訳『日本人の死生観』岩波新書、1977年、下巻p.183。pp.163-167も参照)。しかし、これは却って自分自身の浅いシニシズムを露わにしている。
 ウィリアム・シェイクスピアは「この世界はすべて一つの舞台」と記した(『お気に召すまま』(第二幕第七場)。版も訳も複数)。三島はまさに世界を「一つの舞台」し得たと言える。

(4)三島の割腹諫死

 「討論」における発言を、私は文字で読んでいただけなので、ドキュメンタリー映画で三島の肉声を聴き、表情を観て驚いた。確かに鋭く,時に挑発的だが、想った以上に温かく、柔らかく、時にユーモアさえあった。未熟な若者に余裕を持って諭している教育者を彷彿とさせた。まことに流行に乗って学生を甘やかしつつ煽動し、流行が過ぎたらそ知らぬ顔で逃げる教員とは雲泥の差である。
 そして、翌年11月25日、市ヶ谷で自衛隊員に対して全身全霊で檄を飛ばしている三島は、まさに真剣であった。全共闘よりもはるかに期待していたからであった。
 半世紀を経て、受け継ぐべきは三島であると私は考える。三島は過激な言葉を発する時もあったが、一人も人間を殺傷せず、自分を殺しただけであった。ともに割腹諫死した森田必勝に対しても思いとどまるように説得を試みていた。
 それ以前、文革期、三島は1967年3月1日、川端康成、安部公房、石川淳と連名の「文化大革命に関する声明」で「政治権力の恣意によって学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあって文筆に携わる者として、座視するには忍ばざるものがある」と表明した(『決定版 三島由紀夫全集』第三六巻、新潮社、2003年、p.505)。この意義は文革の実相、さらに中国共産党政府の権力犯罪が明らかになればなるほど高まる。
 他方、全共闘は「ゲバルト」を公然と叫び、実行した。二年後の連合赤軍事件の凄惨なリンチ殺人事件やあさま山荘人質銃撃事件は氷山の一角である。しかも、これはマルクス・レーニン主義、毛沢東主義により、数千万から一億という犠牲者を出した文化大革命、カンボジアのキリング・フィールドに繋がっている。
 だが映画「三島由紀夫vs東大全共闘―50年目の真実」では「ゲバルト」への反省は甘い。自分たちが教室や研究施設を破壊し、内ゲバで殺傷しあったことを避けている。言葉は多いが、その本質は野蛮への退行である。この点でも特に知識人を粛清した文革やキリング・フィールドと共通する。
 他方、全共闘を構成していた新左翼諸セクトは、流行が過ぎるに伴い、焦り、内ゲバ・リンチを激化させ、自ら弱体化した。その要因の一つに三島と森田の鮮烈な死を挙げることができる。それはタナトスを刺激し、内ゲバ・リンチに拍車をかけたと私は分析する。
 無論、これは三島たちの責ではない。彼は他者ではなく、己を殺すことで強烈なメッセージを発信した。その真意を受けとめられない諸セクトは他者を殺し、それにより自分自身を貶めたのである。
 三島は割腹諫死の後、当然、沈黙した。この諫死は日本全体に対してであり、沈黙しても、彼のメッセージ(聲)が響き続けていると、私は認識している。
 彼の割腹諫死をセンセーショナルだが政治に直接影響はなかったと見なすのは軽々である。それは浅薄な流行に対する厳粛で真摯な志操と士道の提起であり、彼の命懸けのメッセージは心理歴史的な深奥に刻まれたと私は捉えている。
 改めて、受け継ぐべきは三島であると再確認する。

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