日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その20

40.駒場第八本館闘争

 本郷の安田講堂「籠城」に並行して、1968年12月から69年1月まで「東大駒場第八本館闘争」があった(神山睦美『日々、フェイスブック』澪標、2016年、pp.102-114。以下、神山の記録は同様)。先述した「大晦日のパーティー」は、その間に催された。神山も「バリケードのなかにはけっこう日常的な風景というものがあって、差し入れの食事をたがいに分け合って食べたり、談笑したり」したと述べている。
 新左翼・全共闘は安田講堂「落城」後、駒場では尚も「第八本館」に「籠城」した。神山は「全共闘の拠点はおのずと、駒場第八本館」に移り、「助手共闘委員長の最首悟をはじめ第八本館に籠城していた者たちは、最後まで抵抗した」と述べる。ただし、全共闘の記録では1月21日に「八本死守の学友、八本を出る」とあり(前掲『砦の上にわれらの世界を―ドキュメント東大闘争1―』p.646)、「最後まで抵抗」は一日であった。
 とは言え、神山の記録は貴重である。それは、鋭敏な実践感覚によるエンピリカルな記録となっているからである。また,彼の認識能力はpp.266-267のベンヤミン、ルクセンブルク、リープクネヒト、アレント、マルクス、パスカルに関する評論から高いと言える。
 それではバリケードの解除について詳しく述べていく。解除したのは日本共産党・民青であった。その論理は“機動隊が導入される前に、学生自治ににより自分たちの手で全共闘を大学から一掃する”ということであった。これについて、神山は「暁部隊」が実行し、「彼らの誰一人として東大民青に属してはいなかった。もともと、民青の連中は、どこか紳士的で、慇懃無礼といった感じのする学生が多く、暴力的なところなど微塵も感じられなかった」が、「暁部隊」は「何か過剰といっていいような攻撃性を感じ」させたと述べている。彼の「民青の連中は、どこか紳士的で、慇懃無礼といった感じのする学生が多く」いという点について、川上は「活動家・運動家の視点」で、また自省も込めて「〈説教臭い〉日共・民青」の要素を認識し、「僕ら自身が変わることによって彼らとの対話が可能になるのではないか」と述べている(『素描・1960年代』p.261)。神山の偏見ではないと言える。私自身、1970年代の「日共・民青」にそれを感じていた。後に日本共産党委員長になる志位もその一人だった。「Aばっかりとってる志位=C君」という呼称は、それを衝いている。私が地域の民青を志向したのは、そのためだった。
 「暁部隊」に論点を戻す。神山はそれを「当時最強の闘争集団とされていた」と認め、この組織には「労働者といわれる人たちも多数入って」おり、「連続ピストル射殺事件の永山則夫などと同じような境遇にありながら、永山とは異なって、組合運動を通し政治的な問題にかかわってきた」のではないかと推測している。何故なら「彼らの暴力性」は「新左翼のセクト学生のそれと少しも異なら」ず、「日本共産党や民主青年同盟の政治指針に従って行動していただけだったろうが、何か過剰といっていいような攻撃性を感じた」からであった。このため、神山は「彼らと向かっていたら、いずれ『殺される』という恐怖を感じて、結局は退散したのだった」。そして、彼は以下のように自己分析しつつ攻撃性のレベルについても指摘する。

 しかし、いまでもそのときの自分の選択は、まちがっていなかったと思っている。
 退散といつても敵前逃亡のようなものなのだから、屈辱や後悔や後ろめたさに苛まれ、精神に変調をきたすほどだった。だが、攻撃衝動の奥からあらわれる暴力というのには、何ともいえない陰惨なものがあった。それは、戦場などで兵士たちを駆り立てていくものとどこか通じるように思われる。

 「当時最強の闘争集団」という評価は、数年後の私の学生時代でも伝えられていた。次に「日共・民青」の側からみていくと、川上は「第八本館封鎖の解除」について、自分自身の観察と木元康博の証言に基づき、次のように述べている(『戦後左翼たちの誕生と衰亡―一〇人からの聞き取り』同時代社、2014年、pp.235-237)。

 楽しかった。体力的にはきつかったけれど、精神的に解放されてましたね。」
 木元は明るく振り返る。
 私(川上)にも当時の駒場の風景が思い出される。私は東大闘争のあいだ日常的には本郷に張り付いていたのだが、ときに駒場の状況を知るためにやってきた。「確認書」も交わされ、闘争は収拾段階に入っていた六九年一月下旬、依然として第八本館の封鎖を解かない全共闘派を行動委員会派が逆包囲し、封鎖解除行動に出ていた時期だった。封鎖派は上からの投石、解除派は下からバルサンをたくなどゲバ戦の現場があった。互いにマイクでアジ演説をぶつけあつた。
 たまたま木元がマイクを手に演説をしていた。「第八本館に籠城している諸君」への呼びかけが滔々つづいていた。「諸君がなぜ出てくる必要があるのか」、あるときはプルードンの言説を引き、あるときはバクーニンの、あるときはリンカーンの演説の〈孫引き〉をしながら、抑揚をつけて延々とやっているのである。なぜ封鎖解除にリンカーンが出てくるのか、まったく意味不明だったが、聴衆は思わずクスリとしてしまう。封鎖派のマイクも一瞬止まったように思えた。
 私なども思わず聞き惚れてしまつた。
 「諸君、白いものなら何でもいい、各から掲げてほしい。パンツでも何でもいい。そうすればわれわれは手出しをしない。ぼくらも疲れているのだ」
 最後、私は声を出して笑ってしまった。
 木元の〈名調子〉は有名だったようだ。ずつと後、対立党派の活動家が言っていた。
 「あいつは敵ながら面白いやつだつた。憎めなかつたんですよ」 一
 ただ、木元には封鎖解除の際、全共闘メンバーいら浴びたシュプレヒコールが忘れられない。
 「権力と結託した日共民青のスト破りを許さないぞ!」
 「われわれは永続的に闘うぞ!」
 聞きながら思った。自分は彼らより先に卒業することはないぞ。スト破りの汚名を着せられるぐらいなら、卒業できなくてもいい――そんな意地もあつた。

 私はべつの機会に伊東恒夫からこのときの話を聞いた。伊東は解放派の一員として第八本館封鎖組みの中にいた。本元のことはよく知っていた。前年、入学して早々のとき、木元たちからオルグされていたからである。伊東も同じ理科一類の数学好き、三年後輩であつた。
 「ぼくは籠城組の中でも一年だから、まだアジ演説はやったことがなかつた。だから、あそこでマイクを持たされたのが初めて。解放派の上級生の連中はそれまでの闘争でみんな捕まってましたから、ぼくがアジをつづけるしかなかったんですよ。そりゃ、木元さんは慣れてたからうまかった」
 伊東はその後も駒場で留年をつづけ、七年後、退学している。

 木元は東大生であるから、神山の「誰一人として東大民青に属してはいなかった」というのは誤りと思われるが、木元の所属は上級の都委員会などに属していれば、誤りではない。しかし、それは民青の内部のことで神山がそこまで知っていた可能性は低い。共産党も民青も、新左翼諸党派も組織内のことは隠す。
 そうでないとすれば、「暁」の時間帯の「暁部隊」の攻撃(朝駆け)の後に川上たちが登場したと考えることもできる。こちらの方が可能性は高い。
 木元は「全共闘派」は「かなり憔悴していた」とも述べたという。これは神山の記述に符合する。また木元は「スト破り」との非難を気にしたが、そのように記述した川上も同様であった。日本共産党・民青も「確認書」で「矢内原三原則」を廃棄させたのであり、この点では新左翼と同じであった。しかし学生自治で研究と教育を正常化するためにストを解除した。若い木元も川上も苦渋に判断であったと言える。

 さらに、神山は「暁部隊」と「対抗してバリケードをつくったり、投石をしたりした者たち」について、次のように述べている。

 彼らはみなそれぞれに個性的な人物だった。しかし、どの一人もどこかアンドロイドのような印象をぬぐえなかった。まず、彼らがどのように私たちの前に現れたかというと、バリケード封鎖を始めようとして結集していると、どこからともなく集団で駒場構内に押し寄せてきた。そして、私たちが手間取っているのを傍目に、あっといま間にバリケード封鎖を遂げたのである。私たちは白かクリーム色に「全共闘」という文字の入ったヘルメットをかぶっていたのだが、彼らは、おもに赤か赤と白の二色のヘルメットをかぶっていたような気がする。
 そのヘルメットには、いわゆる新左翼党派の革マル、革共同、社青同、社学同といった文字が入っているわけでもなかった。以前の寄稿で、彼らを赤軍派といったような気がするが、そういう過激派は、東大闘争を皮切りに大学闘争が全国で敗北してから結成されているので、正確には、後に、赤軍派や京浜安保共闘の結成にあずかることになった連中といった方がいいかもしれない。
 それはともあれ、バリケード封鎖にしても、没石にしても、ほどんどプロといっていい者たちであった。くわえて、人間的な感情のようなものが感じられないアンドロイドのような存在だったということ、それが私にとっていまでも忘れられない印象なのである。
 しかし、当時の私には、そのアンドロイドのような彼らこそが、私たちに代わって困難な事態を切り開いてくれる者と思い込んでいた。
 実際、彼らは、私たちのように訓練されていず、ある意味では足手まといになるだけのノンセクト全共闘を、揶揄したり非難したりということはなかった。それは、無感情だったからでもあるだろうが、何よりも目の前にある闘争がすべてで、他人がどうこうということは二の次だったからだ。そういう意味でいえば、周りを見ながら自分の態度を決定するといったこととはまったく縁のない行動様式を身につけていた。しかも、それが集団の倫理のようになっているのだから、全体で何ともいえない存在感を印象づけたのである。

 神山の認識能力から「どこからともなく集団で駒場構内に押し寄せてきた」、「後に、赤軍派や京浜安保共闘の結成にあずかることになった連中」、「ほどんどプロ」、「アンドロイド」という観察と推論には注目すべきである。また「軍事を通して革命を」、「世界革命戦争」と呼号する赤軍派が結成されたのは1969年9月であった。さらに神山は「軍事」に引きつけて、次のように論じる。

 私はそれを人間的な感情を押し殺したアンドロイドのような存在という比喩で述べてみた。さらには、いわゆる『空気を読む』といったものとはまったく異なった行動様式をそなえているとも。
 まず、私が最も驚いたのは、彼らの禁欲的といっていい姿だった。バリケードのなかにはけっこう日常的な風景というものがあって、差し入れの食事をたがいに分け合って食べたり、談笑したり、寒さをしのぐために身を寄せ合って寝たりといったことだった。ところが彼らは、決して群れることがない。食事も黙々と食べ、無駄なことは喋らず、寝るときには、冷たいリノリウムの床にごろ寝をしていた。
 私などは生来の不眠症のせいか、薄い毛布と仲間の体熱だけではなかなか眠ることができないのだが、彼らは冷たいリノリウムに薄い毛布一枚ですぐに眠りに付いた。民青の暁部隊は、その名の通り明け方に投石攻撃を仕掛けてくるので、陽が昇るか昇らない時間にすでに屋上に結集している。私など、不眠でがんがんする頭を抑えながら、ようやく屋上に出てみるのだが、もう激しい投石合戦が始まっている。その光景を見ながら、「軍事」などというものにまったく不向きな自分のふがいなさに、臍をかんだものだった。

 「軍事」と「プロ」を結びつければ職業軍人となる。神山は「ほとんどプロ」というが、学生のゲバルトの程度では「ほとんどプロ」の力をだすだけでいい。
 それでは、このような集団は「どこから」来たのだろうか? 神山は「どこからともなく」というが、「後に、赤軍派や京浜安保共闘の結成にあずかることになった連中」と推測している。ここから「世界革命」の「毛沢東主義」との関連が見出せる。さらに、連合赤軍における何人ものリンチ殺人が活動家の殲滅と見なせば、毛沢東主義の打倒という筋も考えられる。つまり「銃口から政権が生まれる」の武装闘争に走った活動家の一部は「世界革命」で国外に出し、別の一部は山奥で抹殺した。これは神山の推論を基にした推論であるが、軽視できないと考える。
 神山は「確たる証拠はないのだが、安田講堂をバリ封鎖した実行部隊には、のちに塩見孝也をリーダーとして結成される赤軍派のメンバーが何人もいたとされている。そこからすると、安田講堂と同様、全共闘が占拠していた駒場第八本館を強力にバリ封鎖し、籠城することになったのが、彼らであったというのは十分想像できる」と述べる。実際、プロの機動隊は安田講堂の正面玄関を突破できなかった。それ程まで強力に封鎖できたのは、やはりプロであったと言わざるを得ない。安田講堂は大講堂や総長室など階上は占拠されていたが、階下は業務が続けられていた。建物全体をバリケード封鎖したのは機動隊突入が決まってからであり、短時間で第八本館より大きな安田講堂をこのように封鎖できたのである。
 先に「攻防」は二日間もかかったことに疑義を示したが、それは指揮のレベルで最前線の隊員は大きな瓦礫や火焔瓶が降り注ぐなかで必死にバリケードを突破しようと全力をあげていた。これに耐える程のバリケードが構築されていたのである。
 さらに、神山は「退散」した後も、籠城で知り合った「過激派の何人か」が「下宿」まで来て、連日徹夜で「オルグ」を受けた。彼は最後は「胃に穴が開くような症状が現れ」、救急車で入院し、「義伯父に付き添われて、早々に郷里(岩手-引用者)に逃散した」。彼は「幸いというか」と付記しているが、私もその通りだと思う。
 この体験から、神山はテルアビブ空港乱射事件の「岡本公三や日本赤軍やPFLPというと、背筋が寒くなってくる」という。この実感はリアルな実体験に基づいており、エンピリカルに現実(リアリティ)を反映している。そして、もう一つの可能性・危険性についていえば、国外ではなく山奥に赴き、リンチ殺人の犠牲者となることが考えられる。

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