日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その20補註

補註―中国共産党と日本軍の内通の歴史を踏まえて神山の記録を熟考・推論する―

 戦中、毛沢東・中国共産党と日本軍は内通していた(これについては小著『慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究』秋田平和学習センター、2020年で論じた)。蒋介石・国民党は共通の敵であり、それを支援する米軍と日本軍は戦っており、またイデオロギー的に中国共産党は米帝国主義と闘争していた。ただし、中国共産党は米国の知識人やジャーナリストを延安に招くなど、米国との対決は避けていた。
 戦後、中国共産党は「世界革命」の名で各国から毛沢東主義者を集めて軍事訓練を受けさせ、プロの軍人を各国に派遣し武装闘争を展開させた。その中に日本人がいなかったという確証は、管見ながら、ない。これと神山のいう「軍事」、「ほとんどプロ」、「赤軍派や京浜安保共闘」は適合的である。確かに推論だが、それを否定する証拠も、寡聞ながら、ない。
 だが、「世界革命」による革命の輸出に各国政府は反発し中国は孤立していた。さらに中ソ対立が、1969年3月の珍宝島/ダマンスキー島事件や8月の新疆ウイグル自治区での武力衝突で先鋭化していた。孤立した状態でソ連が侵攻したら中国は持ちこたえられず、国際世論の支持も期待できない。
 この苦境を打開するために、中国は最も敵対していた米帝国主義と和解した。まことに権謀術数の豹変である。
 あさま山荘での人質銃撃事件が1972年2月19-28日と続き、その間の2月21日に米国大統領のリチャード・ニクソンが訪中し、周恩来や毛沢東と握手し、28日に共同コミュニケを発表し、両国は対立から友好へと劇的に転換した。その経緯は世界的範囲でテレビ中継され、「ニクソン・ショック」と称される程であった。
 これにより、毛沢東主義の「銃口から政権が生まれる」を実戦していた連合赤軍にとってイデオロギー的にも政治的にも窮地に陥った。毛沢東主義を信奉し続けるならば、同じように闘争を転換しなければならない。しかし、既に人質監禁、発砲による殺傷と犯行を重ねてしまい(リンチ殺人はまだ発覚していなかったがメンバーは自覚)、それはできなかった。そして、大国の中国にとって、日本のセクトなど小さな齣の一つにすぎず、あっさりと切り捨てられる。既に他国の毛沢東武装組織を、中国共産党は路線転換で次々に切り捨てていた。
 だが日本にはまだ連合赤軍が活動していた。しかも、しかも2月19から連日、毛沢東主義者が日米同盟の日本で武装蜂起している現実をテレビ中継で見せつけていた。これは、日米同盟からみれば毛沢東主義の暴力性=中国の革命の輸出の危険性を世界に見せつけるという点で対中外交カードに利用できた。
 この点で、あさま山荘事件が全国的に10日間も大々的に報道され、それにニクソン・ショックが重なり、2月28日に両方が同時に区切りがついたことも重要である。共同コミュニケで米中が物別れに終わらなかったことを確認して、日本は事件を終わらせたということである。これにより日米同盟は大国の中国を自陣営に引き寄せ、敵をソ連に絞り込むことができた。
 無論、28日は偶然と考えることもできるが、日中の周到な戦略的な駆け引きと取り引き=内通という可能性も見過ごすべきではない。
 連合赤軍の活動家は言葉で様々に釈明しても、外からみれば、結局は狂信的な犯罪集団であり、しかも現実から遊離して道化役を演じたとなる。さらに日中の内通を踏まえれば、演じさせられたとも考えられる。
 いずれにせよ、連合赤軍の一連の事件の後、新左翼への大衆的な支持は低落し、むしろセクトへの恐怖が増した。また、ML派、京浜安保共闘、連合赤軍の名称には「毛」の一文字も使われておらず、毛沢東の権威は傷つかない。そして、彼の死後、文革は終息し、世界革命などそ知らぬ顔で改革・開放へと路線を転換し、革命の輸出ではなく、経済力で世界に影響力を広げ始めた。
 このように熟考・推論すると、神山の記録は極めて貴重である。

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