日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その22

42.「挫折」後の分岐―知識人の無節操、「しらけ」、タナトス

(1)区切りのつかないじり貧―肝心な「落城」敗北宣言=「総括」の回避
 全共闘は「暴力反対」は「ブルジョワ・ヒューマニズム=飼い馴らされた思想に過ぎない」と断定し、ガンディーの「ハンスト」などの「非暴力」を「抑圧の暴力に抵抗する暴力」と強弁していた(『砦の上にわれらの世界を―ドキュメント東大闘争1』pp.351-352)。このような「ハンスト」の意味は既に矢内原が喝破しており(先述)、それが効かないため、また毛沢東主義に煽られて「ゲバルト」に至ってしまった。
 同時に、頭がよく、言葉が達者な者が多いので「連帯を求めて孤立を恐れず」(谷川雁に由来と聞いたが)など共感を呼び起こすスローガンを使った。まことにカッコよく、流行となった要因の一つと言える。しかし、このカッコよさの故に惨めな敗北宣言はできなくなった。
 潜伏していた山本は1969年2月15日付『砦の上にわれらの世界を―ドキュメント東大闘争1』「序」の結びにこれを使い「力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずしてくじけることを拒否する」と結んでいる(出版は4月10日付)。この時点では挽回、逆転を信じていたと言えるが、数年後、「落城」、「挫折」、「しらけ」という情勢の推移で「総括」として敗北宣言を出すべきであった。それが司令官の責任である。そうでなけれな兵士はいつまでも戦い続けなければならない。実際、各セクトの活動家は力量が弱まったから目立たなくなったが、相変わらずゲバルト路線を続けていた(少なくとも「総括」して停止してはいない)。
 無論、山本は自分なりに思想と実践を貫いてきたことは認める。だからこそ、敗北宣言を表明すべきと考える。それが却って彼の思想と実践の意義を高めることになる。そのような敗北宣言を出せると私は期待する。

(2)期待できない知識人の「思想的節操」、「ひ弱な良心」
 全共闘運動の流行に乗った知識人とマスメディアへの丸山の批判については既述した。ここでは参考として、田中と三島の批判を取りあげる。法曹界の重鎮たる田中耕太郎は「インテリゲンチアの思想的節操」を問うとともに「われわれの社会、われわれのジャーナリズム、われわれの学生」は「あまりにも寛容にあまりにも鈍感で、彼等の思想的前歴についてあまりにも健忘症である」と指摘した(前掲「裁判所時報」1952年1月1日所載「新年の詞」)。また、三島は「『孤立』ノススメ」で「進歩的文化人」に対して「否定され、罵倒され、ひ弱な良心を刺されて快感を感ずる人種」と批判した(前掲『決定版三島由紀夫全集』第三六巻、p.183)。作家として知識人の心性を鋭く析出している。「ひ弱な良心を刺されて快感を感ずる」ことと流行に乗じて暴力に同調することは表裏一体である。言わばマゾヒズムとサディズムの相関・複合(アルゴラグニー、 algolagnia )と言える。
 このように低レベルだから、山本のレベルの「大学解体」や「自己否定」を受けとめきれず、低次元の野蛮なゲバルトに怯え、迎合し、追従(ついしょう)した。だからこそゲバルト路線が「挫折」すると「節操」もなく、かつての言論の責任などそ知らぬ顔で時代に迎合した。

(3)全共闘世代からバブル世代へ
 「下、上に倣う」のとおり、多くの学生も「大学解体」、「自己否定」を叫びながら、大学に在籍し続け、授業をまともに受けずに単位を取得し、卒業した。さらに、日本資本主義の発展のために働き/働かせられ、バブルと「大学のレジャーランド化」をもたらし、息子や娘の世代を軽佻浮薄にした。この世代は「新人類」と称され、後に「バブル世代」と呼ばれるようになるが、全共闘世代と知の頽廃の所産である。

(4)「しらけ」―ノンセクト、ノンポリ、野次馬―
 革命には暴力的な祭の要素があることは既述した(小論の7や37)。全共闘運動で騒いだ連中は、それが「挫折」で終われば「しらけ」てしまう。実際「しらけ」の言説が現れた。直ぐに変わることに後ろめたさを感じる者は「しこしこ」とやれることをやるように見せたが、アリバイ的であった。
 そして後身の世代には「三無主義」が指摘された。1968-69年に中高生で、この世代に属した私自身、70年代初に「そうなのかな」と思わされた(『アイデンティティと時代』p.43で一端に言及)。

(5)タナトスの暴走
①内ゲバやテロ
 「しらけ」の広がりは新左翼にとって大衆的支持の狭まりであった。しかし派手に革命を呼号した手前、地道な大衆運動への転換は難しく、むしろ焦ってゲバルトをさらに過激にした。司令官たる全共闘議長の「総括」がないことも要因であった(前述)。
 全共闘運動の前でも、日本共産党、共産同、革共同などで路線をめぐる論争からしばしば暴力が奮われていた。それは暴力革命の所産であり、外だけでなく内でも行使された。それが新左翼セクトにおいては殺人にまで到った。
 1969年9月18日、芝浦工大において反戦連合による中核派埼玉大生暴行致死事件が起きた。これは内ゲバによる初めての死者とされる。その後、内ゲバは続発し、特に中核派、革マル派、解放派(革労協)の間で激化し、死者も多数にのぼった。
 外へのゲバルトも過激化した。1971年8月21日、「赤衛軍」グループが陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官を殺害した。また、1974年8月30日、東アジア反日武装戦線は三菱重工本社を爆破し、通行人など三菱重工とは無関係の多くの死傷者まで出した。ゲバルトというより無差別テロである。同組織はその後も企業爆破事件を続けた。
 外と内の過激化の代表例が連合赤軍であり、リンチ殺人を繰り返し(山岳ベース事件)、1972年2月にはあさま山荘人質銃撃事件を起こし、三名を殺害した(重軽傷者は多数)。

②タナトスのもう一つの現象形態―自殺、「わが解体」―
 セクト主義的な鋭い対立抗争において奥浩平は自殺した(『青春の墓標―ある学生活動家の愛と死』文芸春秋新社、1965年)。学生運動の「天王山」における敗北の後、京都にいた高野悦子は自殺した(『二十歳の原点』新潮社、1971年、『二十歳の原点ノート』新潮社、1976年)。自殺の要因は学生運動だけでないが、それを軽視することはできない。
 同年、京都大学教員の高橋和巳は「わが解体」を『文芸』6~ 10月に連載した。これは彼が死去した71年に『わが解体』として河出書房新社から出版された。前掲『朝日小事典・読書案内』上巻p.63では「京大闘争」の「内側の悩み、憤り、絶望感を一人の良心的知識人の立場で重々しくつづる自己告発の記録」と書かれている。それに加えて、私は「大学解体」のスローガンの記憶が鮮明で、「挫折」の実感も鮮明になる状況で、大学は「解体」されず、我は「解体」したという自虐的な共感と傷の舐め合いによる癒しも洞察する。
 暴力革命はタナトスを広げ、内ゲバやテロだけでなく、自殺をも引き起こしたと言える。この視座から庄司が由美にいわしめた「舌かんで死んじゃいたい」や「白鳥の歌」を捉えることは重要である。

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