近代日本の青年・学生の心理歴史的な研究ノート その1

近代日本の青年・学生の心理歴史的な研究ノート
―世代的アイデンティティと世代のサイクルに自己分析を交叉させて―

Ⅰ 概観

 日本の青年・学生の世代的な特質について概観する。細部は合わない点があろうが、巨視的に考える。
 世代は時代の所産であることから、この考察は『アイデンティティと時代』(同時代社、2010年)の発展である。

1.語義

 子供から大人になる間の年代は、若衆、若人、若者、青年などと呼ばれてきた。おおよそ前近代から近代への過程で、使用頻度は若衆から青年へと移ってきた。それ故、小論の表題では「近代日本の青年」とした。
 その語源について、1880年、YMCA(Young Men's Christian Association)の活動が日本で開始されるにあたり、小崎弘道がyoung menを「唐詩選」の中の「青雲の志」から着想を得て「青年」を案出した。
 また、類似する用語に青春がある。それは陰陽五行説で東に示す色が青で、それに相応する季節が春とされていたことに由来する。なお南と夏は朱、西と秋は白、北と冬は玄である。このように語源的に青年も前近代に関わるのであり、それを見過ごしてはならない。「過現未」の視角で青年を考えつつ、近代に観点を据える。
 また、学生についても近代以降の意味で用い、それは青年の部分集合とする(成人の学生は高度経済成長に次いで生涯教育が提唱されてから増えたので、その時代から考える)。
 なお「青年」という熟語は中国に逆輸入された。文献としては、1915年9月『青年雑誌』、(翌16年9月『新青年』と改称)がある。その後「五・四運動」を主導したのは「新青年」で、20年後、延安の中国共産党根拠地にも多くの青年・学生が集まった。

2.「田舎青年」と青年会

 明治維新から進展した文明開化において、1896年、山本滝之助は「青年」は専ら都会の学生や書生を指し、農村の同年代の若者は看過されているとの問題意識から『田舎青年』を自費出版し、農村青年の存在を訴え、青年の活動の必要性を提起した。『田舎青年』では「均く之青年なり、而して一は懐中に抱かれ、一は路傍に棄てらる、所謂田舎青年とは路傍に棄てられたる青年にして(中略)挙世滔々、青年を以て学生の別号なりとし、青年と云えば一も二もなく直ちに学生を以て之に答う(中略)青年の上に青年なく、青年の下に青年なく、都会青年と云い田舎青年と云うも、畢竟本来同等にして毫も上下の別なきものとす」と論じられている(東大教育学部社会教育研究室にあったガリ版刷より。作成者や作成年は不明)。
 「青年の上に青年なく、青年の下に青年なく」は福沢諭吉が『学問のすゝめ』(1872年)で述べた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」に通じる。その上で、「田舎青年」には、「学商」と称された福沢における立身出世的傾向に対する異論が内包されていると捉えられる。夏目漱石が「坊ちゃん」(1906年)で表現した都市の旧制中学の実態、それへの反骨精神と組み合わせると、より深く鋭い青年観が得られる。
 論点を「田舎」に戻すと、近代化は伝統的な若衆宿、娘宿、若連中、若者組、娘組などにも及んだ。その趨勢において、山本は広島で青年会を発足させた。これは一つの契機となり、地域の青年組織の再編が進み、若者組などは青年会、青年団、処女会(女子青年会/団)などと名称を変えた。

3.若者組から青年会/団へ

 まず若者組などについて述べる。それは社会教育の淵源の一つであり、、近代化を通して青年団へと発展したことを理解するためである(以下、基本的に若者組と青年団で一括)。
 若者組は、儀礼・祭事では村長、長老、神主、僧侶たちの指示で役割を分担し、繁忙期には勤労支援を行った。さらに、原民主的な「和」を破壊する暴力を阻止・抑止してきた。戦乱、山賊、盗賊に対する防衛、治安維持の防犯、山火事、暴風、洪水などへの防災、遭難・海難などの救援の実動部隊の役割を果たした。
 また、地域によっては、若衆になると家を出て寝起きは若衆宿でした。昼は働き、食事は働くところの家が提供する。夜は、先輩たちから慣習や規範を学ぶ。
 これらと類似の形態・慣習は台湾や南洋諸島にも認められる(別の機会に論じる)。
 若者組から青年団への変革には、日本を近代国家とするために、夜這い/呼ばい(ヨバイ)などの前近代的な性的習俗が、文明開化に相応しくない(特に欧米のキリスト教的性道徳から未開の悪習と見なされる)という判断もあった。ただし、これは安易に一面的に捉えて、現代の不特定多数との乱れた関係と同一視してはならない。そこには前近代的な規範・倫理があった。「呼ばい」は「呼び」、応える=「呼びあう」というコミュニケーションの形態で、古代の歌垣に遡れる(詳しくは別の機会に述べる)。
 若者組は近代化に伴い青年団に継承されながら、防衛・防犯は主要には軍と警察が、防災は消防署が担当するようになった。ただし、地域では消防団が組織され、やはり青年団が重要な役割を果たしていた。川端康成『雪国』(1937年)の冒頭では、次のように「消防組青年団」が記されている。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。(略)葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。/ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。トンネルの南北から、電力による雪崩報知線が通じた。除雪人夫延人員五千名に加えて消防組青年団の延人員二千名出動の手配がもう整っていた。/そのような、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、葉子という娘の弟がこの冬から勤めているのだと分ると、島村はいっそう彼女に興味を強めた。

 このように若者組から青年団への継承と発展には変わる部分と変わらない部分があり、だからこそさらなる研究が求められる。

4.青年団の全国的組織化

 青年団は、内務省や文部省の主導で制度化され、忠孝の本義を体し、品性を向上させ、体力を増進する「修養団体」と規定しされた(特に大正期)。これにより若者組の自然発生的な人間形成機能の一定の部分は教育制度に組み入れられた。
 1912(明治45)年、明治天皇が崩御し、明治天皇を祭神とした明治神宮の建立が計画されると、内務省明治神宮造営局総務課長で、山本を継承し青年教育を実践していた田澤義鋪は、神宮造営奉仕を全国の青年団/会に呼びかけ、それを契機に、1925年4月 15日、大日本連合青年団が設立された。
 1915(大正4)年、内務・文部両省の共同訓令により、青年団が修養団体と規定され、統制が強化された。
 1925年、青年団を「連合」させた大日本連合青年団が組織された。これに関して、官公では後藤新平が大きな役割を果たした。彼は少年団日本連盟初代総裁も務めた。さらに、1927年、大日本連合女子青年団、1941年、大日本青少年団が結成され、翌42年、それらは大政翼賛会の傘下に組み入れられ、国民精神総動員運動の一翼となったが、終戦/敗戦で解散した。しかし、再建が進み、青年団の部門は1947年に日本青年団体連絡協議会(51年に日本青年団協議会=日青協となり現在に到る)として、少年団の部門は1949年にボーイスカウト日本連盟に再編された。
 GHQは日本青年団体連絡協議会を大日本青少年団の復活と警戒したが、社会主義共産主義的青年運動が急速に広がる情勢への対抗として容認した。
 このような激変において、民間では田沢義鋪や下村湖人が活躍し、その中で鈴木健次郎は鍛えられた。戦後、鈴木は公民館の普及に尽力した。当時の公民館では青年団が大きな位置を占めていた。
 なお、学校教育では、小学校~高等小学校~中学校とは別に小学校~高等小学校~実業補習学校、青年訓練所、青年学校という学歴の階梯も制度化された。後者は社会教育に近く、青年団とも関連があった。

5.モダンボーイ、モダンガール、マルクスボーイ、新人

 世界市場の発展において大都市では欧米の影響が強まった。大正デモクラシーと呼ばれるが、民主主義(デモクラシー)だけでなく社会主義、共産主義なども合流・混在していた。そして、モダンボーイ(略称モボ)、モダンガール(略称モガ)、マルクスボーイが流行した。これは青年団とは全く異質の青年たちであった。
 さらに、ロシア革命の翌年1918(大正7)年12月、東京帝大で「新人会」が結成された。この「新人」に関して、普通名詞としての意味だけでなく、ソ連で国策として進められた「新人」の育成についても考慮しなければならない。
 カール・マルクスが「フォイエルバッハに関するテーゼ」第三で「教育者自身が教育され」ねばならないと提起したとおり、マルクス主義革命には教育革命が含まれていた。それを承け、マルクス・レーニン主義を国是としたソ連では、革命により新たな社会を建設することは、新たな人間という意味で「新人」を作り出すことが国策になった。ここで「作り出す」というのは、唯物論的に人間を製造するという意味を込めるためである。そのため、ソ連共産党は児童、少年、青年の成長・発達を完全に統制すべく、「オクチャブリャータ」(七~九歳)、「ピオネール」(十~十五歳)、「コムソモール」(十六~およそ三五歳)という組織を設立し、各年齢段階に応じて政治的イデオロギー的な訓練を受けさせた。なお「オクチャブリャータ」は十月革命に由来する。
 そこでは、闘争における思想改造により錬磨された、党と国家に全てを献げる無私の精神が根幹に据えられていた。このような「新人」により、人類史上かつてなかった共産主義社会という新しい社会が実現すると考えられていた。
 このイデオロギーは、ニコライ・チェルヌイシェフスキーやウラジミール・レーニンの同名の書『何をなすべきか』(1863年、1902年)に端的に表明された。さらに、レーニンの共産青年同盟(コムソモール)第3回全国大会(1920年10月2日)での演説をまとめた『青年同盟の任務』を加えると、オクチャブリャータ、ピオネール、コムソモールの次に共産党が現れる。
 このような発達過程はアルカジー・ガイダールの『学校(Школа、School)』(1930年)、ニコライ・オストロフスキーの『鋼鉄はいかに鍛えられたか』(1932年)で具象化された。さらに戦後は、チェ・ゲバラの「キューバにおける人間と社会主義」(日本語訳は世界革命運動情報編集部訳『国境を超える革命』レボルト社、一九六八年、二〇九~二三二頁の「社会主義と人間」)で鮮明に表明された。
 これらを踏まえて帝大「新人会」について考えねばならない。また新人会結成の翌19年に創刊された『改造』誌も同様である。社会だけでなく人間の「改造」も目指されていた。

6.「新人」と「新日本人だ」
   ―戦前と戦後、ソ連と桐生や葛飾の異なる時空間を通底する心理歴史的な繋がり―

 私は群馬県桐生市の郊外で生まれ育ち、子供時代にガイダールの『学校』を『ボリスの冒険(学校)』を袋一平訳(伊藤貴麿[ほか]編、少年少女世界文学全集 32・ロシア編 3、講談社、1960年)で幾度か読んだ。ロシア革命など全く分からなかったが、少年ボリスが戦いで鍛えられて成長するストーリーにわくわくした(闘争がボリスの「学校」)。少年少女世界文学全集は特攻隊員だった父が買いそろえたが、息子がマルクス・レーニン主義に影響されていることなど全く思いもよらなかったことだろう。
 無論、影響はそれだけでなく、私は、ちばてつやの「紫電改のタカ」(『週刊少年マガジン』1963~65年)、辻なおきの「0戦はやと」(『週刊少年キング』1963~64年)なども読んだ。石森章太郎の「サイボーグ009」(『週刊少年キング』1964年~等)では「誰がために鐘は鳴る」の詩句を覚えた。他にも様々あった。
 このように雑多な影響を受けて青年になり、学生時代『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を新日本文庫版で読んだが、『ボリスの冒険(学校)』がレディネスになっており、やはりどんどん読み進めた。様々要素がそれぞれ有する可能性からマルクス・レーニン主義が突出するようになった。
 そして、帝大セツルメントを引き継いだ亀有セツルメントのセツラーになった。帝大セツルメントは新人会と重なりあうところが多かった。これはセツラーの時代には知らなかった。前掲『アイデンティティと時代』の後、さらに研究を進める中で分かった。そして、1970年代、葛飾で、サークルに集った高校生たちが冗談まじりに「ぼくたち新日本人だ」とおしゃべりしていたことは、的外れではなかったと思わされた。それはソ連的な「新人」や「新人会」ではなく、「新日本出版社」や「新日本婦人の会」を意識したからであった。それでも、高校生たちは周囲の党員に勧められて『鋼鉄はいかに鍛えられたか』を読んでいた。従って「新日本」をつくる「新日本人」という意味では「新人」に通底していたと言える。

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