ユーゴスラヴィア留学後の研究ノート7
ユーゴスラヴィアとしてのアイデンティティ形成の下で深刻化したクライシス
危機は進行していたが、私だけでなく、ユーゴスラヴィア人も深刻に感じていなかった。前述の「ネマ・プロブレーマ/no problem」で何事も受けとめる心性だけではない。1984年にサラエボ冬季オリンピックが開催されると、それが自主管理方式でボランティア中心の新たな方式を創出したと国際的に話題になるとともに、国内では今までセルビア人、クロアチア人などと分かれていたが、新たに「ユーゴスラヴィア人」というアイデンティティが生まれたという喜びの声を耳にした。
その五年後、中国における天安門事件(血の日曜日)やベルリンの壁の崩壊による共産主義イデオロギーの権威失墜、東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊という情勢において民族主義が強まり、さらには内戦が激化するとは思わなかった。
内戦勃発は1991年で、サラエボ・オリンピックから7年しか経っていなかった。私はまことに不明を恥じ、痛切に反省するが、当初は楽観していた。内戦の悲惨な状況を知らされる中で、やっと判断を誤ったことに気づかされた。そして、確かに留学時にも兆候があったと思わされた。
「ベオグラード通信」で述べたとおり、冬でもしばしば長時間停電した。十分な電力はあったが、対外債務の返済ができず、電気の輸出で代替していたのである。
食肉は社会主義経済で公認の店頭でははほとんど販売されていなかった。高級デパートの食肉コーナーでは豚の頭が置かれていただけという状況であった。ところが、自由市場では高額だが購入できた。既に庶民は社会主義経済から離れ、自主的に地下経済を形成していたのである。
私はドルを持って行ったので、毎週少しずつ両替するたびにディナールの金額が増え、ありがたいと思った。だが、ディナールの急激な価値下落にはそれほど関心を向けなかった。
その後、ハイパーインフレになったが、それでもセルビア人の生活はほぼ守られていた。それは地下経済が強靱であったからである。それも自主管理に拠っていたと言える。
悲惨な内戦と対照的で、まことに「文明の十字路」において複雑で深刻なクライシスを繰り返し乗り越えてきた民族であることを思わされる。
危機は進行していたが、私だけでなく、ユーゴスラヴィア人も深刻に感じていなかった。前述の「ネマ・プロブレーマ/no problem」で何事も受けとめる心性だけではない。1984年にサラエボ冬季オリンピックが開催されると、それが自主管理方式でボランティア中心の新たな方式を創出したと国際的に話題になるとともに、国内では今までセルビア人、クロアチア人などと分かれていたが、新たに「ユーゴスラヴィア人」というアイデンティティが生まれたという喜びの声を耳にした。
その五年後、中国における天安門事件(血の日曜日)やベルリンの壁の崩壊による共産主義イデオロギーの権威失墜、東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊という情勢において民族主義が強まり、さらには内戦が激化するとは思わなかった。
内戦勃発は1991年で、サラエボ・オリンピックから7年しか経っていなかった。私はまことに不明を恥じ、痛切に反省するが、当初は楽観していた。内戦の悲惨な状況を知らされる中で、やっと判断を誤ったことに気づかされた。そして、確かに留学時にも兆候があったと思わされた。
「ベオグラード通信」で述べたとおり、冬でもしばしば長時間停電した。十分な電力はあったが、対外債務の返済ができず、電気の輸出で代替していたのである。
食肉は社会主義経済で公認の店頭でははほとんど販売されていなかった。高級デパートの食肉コーナーでは豚の頭が置かれていただけという状況であった。ところが、自由市場では高額だが購入できた。既に庶民は社会主義経済から離れ、自主的に地下経済を形成していたのである。
私はドルを持って行ったので、毎週少しずつ両替するたびにディナールの金額が増え、ありがたいと思った。だが、ディナールの急激な価値下落にはそれほど関心を向けなかった。
その後、ハイパーインフレになったが、それでもセルビア人の生活はほぼ守られていた。それは地下経済が強靱であったからである。それも自主管理に拠っていたと言える。
悲惨な内戦と対照的で、まことに「文明の十字路」において複雑で深刻なクライシスを繰り返し乗り越えてきた民族であることを思わされる。
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