ユーゴスラヴィア留学後の研究ノート8
パワーポリティクスにおける中華人民共和国との関係
中国人留学生と会うことはなかったが、日本人留学生と月に一回ほど北京飯館で食事をした。当時、ユーゴスラヴィアでは日本の食材どころか米を手に入れるのも容易でなく、中華料理はありがたかった。自由市場でマケドニア産の米(マケドンスキー・ピリナッツ)が売られていたが、高いけど食感が合わず、砂粒が混ざっていた。炊く前に皿に広げて砂粒を取り除いたが、それでも食べてガリッとくる時があった(砂粒には米粒とそっくりなのもある)。
まことに食の問題を痛切に感じたのは、留学して三カ月ほど経った頃で、醤油や味噌が無性に欲しくなった。後に、商社マンなど、同じような状況に置かれた者が洗面器いっぱいの味噌汁に顔を浸ける夢をみたなどのエピソードを知り、それ程ではなかったが、共感を覚えた。
北京飯館は象徴的で、中国とユーゴスラヴィアはソ連との対抗で友好関係を構築していた。ただし、それに到る過程にはパワーポリティクスが交錯していた。
国連創設から中国を代表してきた中華民国(台湾や金門・馬祖)に代えて中華人民共和国に代表権を認める「国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復(Restoration of the lawful rights of the People's Republic of China in the United Nations)」は「アルバニア決議」と呼ばれるとおり、ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦の隣国のアルバニア人民共和国は強固な友好関係に基づいて中国を支援してきた。だが、1971年10月25日、国際連合第26回総会で、それが2758号決議として採択されると、中国は、1972年2月21日のリチャード・ニクソン米国大統領の訪中を画期として対米外交を対立から友好へと豹変し(国交樹立はジミー・カーター政権の1979年1月1日)、さらにアルバニアの宿敵ともいえるユーゴスラヴィアとも友好に転じ(それ以前は修正主義と批判)、これによりアルバニアとの関係は悪化した。
私は高校時代(1969-72年)、メディアで「アルバニア決議案」が頻繁に繰り返されていたことから、受験知識のレベルながら、アルバニア人民共和国(1976年からアルバニア社会主義人民共和国、91年からアルバニア共和国)と中華人民共和国の友好関係は特別と思っていた。さらに「人民共和国」や「社会主義共和国」はみな相互に友好的だと見なしていた。学生、院生と進むなかで、それほど単純ではないと考えるようになったが、基本的にはその水準でユーゴスラヴィアに留学し、ユーゴスラヴィア~中国~アルバニアの相互関係について学び始めたため、中国の豹変について理解に苦しんだ。
しかし、日中戦争の研究を通して中国は歴史を通して豹変が繰り返されていることを知り(山田『慰安婦と兵士の愛と死:限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究』増補改訂版、秋田平和学習センター、2020年、第一章第五節第一項「繰り返される豹変」等を参照)、それがアルバニアに対しても為されたと認識できるようになった。
なお、天安門事件、先進諸国による経済制裁、ベルリンの壁の崩壊、スロベニアやクロアチアの独立という情勢においてセルビアと中国の関係はより緊密になった。そして、NATO軍の「民族浄化」の阻止などを理由にした人道的軍事的介入の中で、1999年5月8日朝、米軍を主力とするNATO軍部隊による在ユーゴスラビア中国大使館への空爆が起きたが、これに関しては別の機会に論じる。
次に中国共産党についてみると、それは、アメリカには帝国主義であると批判し、ソ連には社会帝国主義と批判していた。そこには米ソ両超大国への対抗において第三世界で指導力を強めるとともに、社会主義圏ではソ連を凌駕しようという戦略があった。それは「世界革命」として押し進められた(現在では「一帯一路」と表現を変えているが、覇権主義と権謀術数は一貫している)。
従って、中国は米ソへの対抗のためにユーゴスラヴィアと友好的になったわけで、決して自主管理社会主義になったわけではなかった。これは文革終息後、毛沢東の偶像化と苛烈な一党独裁の反省から一転して市場経済化に向かったことに示されている。政治的な強権支配を緩めたことを経済的な利益誘導で補填したのであり、共産党(プロレタリア)独裁では一貫していた。それ故、国内でユーゴスラヴィアに関心を向ける者たちは弾圧された。
また先述した「アルバニア決議案」に象徴される如く、中華人民共和国の国連加盟(しかも安保理常任理事国)で、アルバニア人民共和国は大きな役割を果たしたが、中国は加盟のために米国に接近し、それに伴い、相変わらず米帝国主義との闘争を標榜するアルバニアを使い捨て、同時にアルバニアと歴史的に確執のあるユーゴスラヴィアと友好を強めた。まさに覇権主義的権謀術数であり、ユーゴスラヴィアもそれを承知していたが、ソ連の脅威(先述の核攻撃まで)に曝されているため、中国との友好関係は極めて重要であった。
中国人留学生と会うことはなかったが、日本人留学生と月に一回ほど北京飯館で食事をした。当時、ユーゴスラヴィアでは日本の食材どころか米を手に入れるのも容易でなく、中華料理はありがたかった。自由市場でマケドニア産の米(マケドンスキー・ピリナッツ)が売られていたが、高いけど食感が合わず、砂粒が混ざっていた。炊く前に皿に広げて砂粒を取り除いたが、それでも食べてガリッとくる時があった(砂粒には米粒とそっくりなのもある)。
まことに食の問題を痛切に感じたのは、留学して三カ月ほど経った頃で、醤油や味噌が無性に欲しくなった。後に、商社マンなど、同じような状況に置かれた者が洗面器いっぱいの味噌汁に顔を浸ける夢をみたなどのエピソードを知り、それ程ではなかったが、共感を覚えた。
北京飯館は象徴的で、中国とユーゴスラヴィアはソ連との対抗で友好関係を構築していた。ただし、それに到る過程にはパワーポリティクスが交錯していた。
国連創設から中国を代表してきた中華民国(台湾や金門・馬祖)に代えて中華人民共和国に代表権を認める「国際連合における中華人民共和国の合法的権利の回復(Restoration of the lawful rights of the People's Republic of China in the United Nations)」は「アルバニア決議」と呼ばれるとおり、ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦の隣国のアルバニア人民共和国は強固な友好関係に基づいて中国を支援してきた。だが、1971年10月25日、国際連合第26回総会で、それが2758号決議として採択されると、中国は、1972年2月21日のリチャード・ニクソン米国大統領の訪中を画期として対米外交を対立から友好へと豹変し(国交樹立はジミー・カーター政権の1979年1月1日)、さらにアルバニアの宿敵ともいえるユーゴスラヴィアとも友好に転じ(それ以前は修正主義と批判)、これによりアルバニアとの関係は悪化した。
私は高校時代(1969-72年)、メディアで「アルバニア決議案」が頻繁に繰り返されていたことから、受験知識のレベルながら、アルバニア人民共和国(1976年からアルバニア社会主義人民共和国、91年からアルバニア共和国)と中華人民共和国の友好関係は特別と思っていた。さらに「人民共和国」や「社会主義共和国」はみな相互に友好的だと見なしていた。学生、院生と進むなかで、それほど単純ではないと考えるようになったが、基本的にはその水準でユーゴスラヴィアに留学し、ユーゴスラヴィア~中国~アルバニアの相互関係について学び始めたため、中国の豹変について理解に苦しんだ。
しかし、日中戦争の研究を通して中国は歴史を通して豹変が繰り返されていることを知り(山田『慰安婦と兵士の愛と死:限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究』増補改訂版、秋田平和学習センター、2020年、第一章第五節第一項「繰り返される豹変」等を参照)、それがアルバニアに対しても為されたと認識できるようになった。
なお、天安門事件、先進諸国による経済制裁、ベルリンの壁の崩壊、スロベニアやクロアチアの独立という情勢においてセルビアと中国の関係はより緊密になった。そして、NATO軍の「民族浄化」の阻止などを理由にした人道的軍事的介入の中で、1999年5月8日朝、米軍を主力とするNATO軍部隊による在ユーゴスラビア中国大使館への空爆が起きたが、これに関しては別の機会に論じる。
次に中国共産党についてみると、それは、アメリカには帝国主義であると批判し、ソ連には社会帝国主義と批判していた。そこには米ソ両超大国への対抗において第三世界で指導力を強めるとともに、社会主義圏ではソ連を凌駕しようという戦略があった。それは「世界革命」として押し進められた(現在では「一帯一路」と表現を変えているが、覇権主義と権謀術数は一貫している)。
従って、中国は米ソへの対抗のためにユーゴスラヴィアと友好的になったわけで、決して自主管理社会主義になったわけではなかった。これは文革終息後、毛沢東の偶像化と苛烈な一党独裁の反省から一転して市場経済化に向かったことに示されている。政治的な強権支配を緩めたことを経済的な利益誘導で補填したのであり、共産党(プロレタリア)独裁では一貫していた。それ故、国内でユーゴスラヴィアに関心を向ける者たちは弾圧された。
また先述した「アルバニア決議案」に象徴される如く、中華人民共和国の国連加盟(しかも安保理常任理事国)で、アルバニア人民共和国は大きな役割を果たしたが、中国は加盟のために米国に接近し、それに伴い、相変わらず米帝国主義との闘争を標榜するアルバニアを使い捨て、同時にアルバニアと歴史的に確執のあるユーゴスラヴィアと友好を強めた。まさに覇権主義的権謀術数であり、ユーゴスラヴィアもそれを承知していたが、ソ連の脅威(先述の核攻撃まで)に曝されているため、中国との友好関係は極めて重要であった。
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