日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート その14

32.学生運動の「天王山」、安田講堂「攻防戦」と神田カルチエラタン闘争
  ―「造反有理」、「革命無罪」と組織的に繰り返された殺人未遂―

 学生運動の「天王山」と称される安田講堂「攻防戦」では、大学当局から要請を受けた警視庁機動隊が新左翼・全共闘の活動家を制圧し、バリケード封鎖を解除した。謂わば学生運動の「本丸」が「落城」し、これを契機に東大闘争は沈静化に向かった。ところが、全共闘運動は他大学に飛び火し、さらに高校にも及んだ。この要因としては、先述した東大当局が「矢内原三原則」と廃棄し、活動家学生を甘やかしたことに加えて、マスメディアの一部が火焔瓶闘争の派手な映像とともに活動家に同情的なメッセージを込めて報道したことも挙げられる。
 ただし、その内実についてさらに考察を加えなければならない。東大闘争とは言え、それは全国的な学生運動の象徴であり、活動家は全国から動員されていた。そして、機動隊導入の直前に撤退したのは、民青と革マルだけでなく、各セクトの東大生も多かった。安田講堂、工学部列品館などの拠点には東大生もいたが、他大学生などが多かった。頭がいい東大生は機動隊が本格的に乗り出せば敗北は必至と判断でき、たとえ新左翼セクトに所属していても、結果が出る前にあれこれ理由を見つけて現場から逃げたのである。救援対策や弁当の差し入れなどをしていたという仙谷由人はその一例と言える。そして、ノンポリや野次馬の東大生はこれを身近に見聞しており、当然、全共闘の評価は下がった。できない「大学解体」を呼号した帰結であり、自業自得と言える。
 無論、今井たち最後まで闘い抜いた者もおり、ゲバルトの問題とは別に、このことを看過すべきではない。山本も大局的な戦略で安田講堂にいなかったと考える。
 その上で、事後に、最も重大な決戦(天王山)の前に引き下がりながら、いかにも東大闘争に参加していたという類いの要領のよさに注意しなければならない。対照的に、他大学生で逮捕され、釈放後も地道に不器用に生き、東大闘争について自ら語らない者に注目すべきである(他大学だから「東大」闘争について話しにくい)。ビルの宿直、スーパーの夜間清掃など夜勤で生計を立て、動員に応じて昼の活動に参加するように相変わらず地味である。「夜勤だから、夜のややこしい会議は出なくてすむ」ということを聞いた。
 全共闘に関する言説や文献は無数にあるが、この一言はその全体に優るとも劣らないと私は考える。何故なら、当時の過激な空論、その後のヒロイックでノスタルジックな回想や講釈ではなく(しかも「自己批判」と叫びながら自賛的なものが多く)、是非はともかく、現実に立脚しているからである。
 18-19日、本郷キャンパスでの安田講堂「攻防戦」と同時に、近隣(徒歩でも若ければ20分ほど)の神田地区(学外)でゲバルト(神田カルチエラタン闘争)が組織的に行使された。佐々は「機動隊の負傷者に比べて学生側の負傷者が少ないのは、『怪我人を少なく』という警備の大方針があった上、学生側は“未必の故意”の殺意ありと判示できるほどの凶暴の限りを尽くしておいて、いざ土壇場になるとすぐ手をあげ抵抗をやめて、逆に『暴力を振るうな』と抗議するという有様だったからだ」と述べる(検挙数も含めて『東大落城』p.19、及びpp.285-286)。警察の立場だが、先述したとおり、安田講堂屋上の高所からの投石や火焔瓶は正に殺人未遂である。
 これらは公然と行使され、画像・映像は無数に残っている。「造反有理」、「革命無罪」のイデオロギーやプロパガンダ(党派だけでなく一部マスメディアの同情的な報道も含む)から解放されて、その行為を法に照らして判断することができる。
 このように組織的に繰り返された殺人未遂にも関わらず、機動隊員が負傷ですんだのは、複数の武道の有段者で、能力が極めて優秀であったためである。

33.高校の全共闘

(1)四方田犬彦の敵前逃亡

 全共闘運動は全国に飛び火し、高校でも全共闘が現れた。当然、高校生は学生よりも未熟であり、それを考慮しなければならない。その上で、四方田犬彦について注意しなければならない。彼は、東京教育大学農学部附属駒場高校の全共闘バリケード封鎖に参加するが、食料調達のためと抜け出し、戻った時には既に封鎖は終わっていたと説明するが(『ハイスクール1968』新潮社、2004年など)、これへの批判もある。たとえ四方田の記述を尊重したとしても、そこには“悪いのは自分がいない間にバリケードを解除した他の者だ”という示唆が込められていることは問われるべきである。さらに“自分は全共闘に参加した(だからすごいだろう=反体制向け)、しかし、この程度だった(だから危険ではない=体制向け)”という示唆もある。まことに頭がいい。
 さらに、これは明白な「敵前逃亡」である。高校生のバリケード封鎖だから追及されないだろうが、戦場どころか百姓一揆でも、そう見なされる。
 無論、これは青春の一場面で、その後、全共闘にほとんど関心がなくなれば、その程度の意識だから、実質的に敵前逃亡でも、そう思わなかったと思いやることもできる。しかし、彼は自分の行動も含めて全共闘関係の著書を多く出版している。それ故、関心が低かったとは言えない。
 つまり、自分の敵前逃亡を糊塗し、全共闘に関して一定の権威を有するようになっている。まことに頭がいいが、それはずる賢いと言うべきである。

(2)村上龍の『69』

 東京の高校生は東大闘争の影響が大きかった。地方では、党派の指導があったが、どうしても間接的であり、従って高校生らしい活動ができる余地があった。党派の中央も社会主義共産主義の平等主義がありながら、東京ほどに地方を重視しなかった(いたら、ご教示を)。
 1969年の長崎県佐世保市における高校のバリケード封鎖やイベントの開催などを、村上龍は『69 sixty nine』(集英社、1987年)で描いた。それは、彼自身の体験を基にした自伝的な小説であり、革命には祝祭の要素があることが読みとれる。これは2004年に映画化された(監督李相日、主演妻夫木聡)。

(3)庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』など
―「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないため」に「逃げて逃げて逃げまくる方法」―

 庄司薫は『赤頭巾ちゃん気をつけて』(『中央公論』1969年5月号で発表、同年芥川賞受賞、後に単行本)で東大闘争の時のエリート高校生について叙述している。
 その主体・主語(語り手)は都立日比谷高校三年生の「ぼく」、「薫くん」で、モノローグが基調となっている。彼は学校群制度が導入される前、進学校の頂点に位置していた日比谷高校の最後の生徒である。東大の入試中止が発表された後の1969年2月9日、日曜の一日のできごとや心情が軽妙かつペダンティックに語られる。「ぼく」は悩み、願書の期限は翌日だが、提出できる大学は受験しないと決心する。大学の否定のように読めて「大学解体」に通じるが、むしろ東大の関係者が多く登場し、随所に出される知識(受験学力も含む)や教養で東大は示唆的に持ち上げられている。
 イデオロギーに関しては、その二では「ぼくは実はゲバラの大ファンで、毛沢東のすごさにはもうお手あげで、『ワンソイ・マージューシ』って感じもあるし、ホーチミンにはこれはやや『ザ・タイガース』ファンの女の子的感慨を抱いているし、それからマルクスときたら、これはもうほとんど愛しちゃっているといっていいくらいなのだ」と書かされいる(中公文庫版ではp.26)。「ワンソイ・マージューシ」は「万歳・毛主席」と思われる。このような「ぼく」だが、彼の家には女中がいる程の経済的余裕があり、決してプロレタリアートではない。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』の九において学生運動の脈絡で「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説」が述べられ、「逃げて逃げて逃げまくる方法」が提出されている。多くの、いざとなったら現場から逃げた全共闘活動家にとって癒やしとなるメッセージである。だからこそヒットしたと言える。
 「赤頭巾」の「赤」が共産主義を表現する色であることから、「赤頭巾ちゃん気をつけて」の書名は「赤」=共産主義をまとった者よ気をつけてとなり、「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないため」に「逃げて逃げて逃げまくる」ことに符合する。
 それでも東大全共闘や毛沢東主義への肯定的な評価を変えるまでには至っていない。なお、死をモチーフにした『白鳥の歌なんか聞こえない』(中央公論社、1971年)の三では「安田トリデ落城」が言及されており、東大全共闘への追悼を読みとることができる。これを進めれば、ギリシャ神話では白鳥はいよいよ死を迎えようとするとき、ひときわ美しく歌うと説かれるが、東大全共闘はどうなのかという問いかけが導き出される。この解釈は「安田トリデ落城」に際して「学生の手記」に記された「最後のタバコ」は「帝国陸軍以来の伝統」と書かれていることに符合する。
 死に関しては「ぼく」の幼なじみで「女友達」の「由美」は何かあると「舌かんで死んじゃいたい気持ち」になる。彼女はそれをいうだけだが、『ノルウェイの森』の「直子」は、方法は異なるが、自殺を遂げた。「由美」と「直子」という筋で毛沢東主義や全共闘運動が昂揚した時代のタナトスについて考えることができる。『ノルウェイの森』については後で論じることにして、論点を戻す。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』に続く『さよなら快傑黒頭巾』(中央公論社、1969年)では、その一において、「ぼく」は『毛主席語録』を「抱えて寝て」、目覚めると読む。だが、朝立ちの時に「つかんでも、しっかりでなければ、つかまないのと同じだ。……つかまないのはいけないが、つかんだとしても、しっかりでないのは、これもいけない」の文言を読むと「ちょっと相当に困ってしまった」が「不謹慎だ」と分かっていながら「笑いがとまらなくな」り「見事に難関を切抜けることができた」と、自慰と苦闘するさまがユーモラスに書かれている(当該の語録は毛沢東「党委員会の活動方法」1949年3月13日にある)。そして、その七では、「笑ってしまったとたんに、そこを真剣に読んでいる何億という中国の人々を」傷つけるかもしれないと反省する。その五や六では、「ぼく」が「毛語録」を「暗記」しており、このため「マルクスと毛沢東にズッコケてる」と思われ、「MM派」と称されている(その五)。ところが、その七では「中年の紳士」に「エムエル派」と誤解され、「もってまわった語り口」で「相当猛烈にいやったらし」く批判される。その後、このような人物を実際に東大のゼミなどで幾度も見聞し、庄司の作品のリアリティを確認した。しばらくして葛飾で自分がそのようになりつつあるのに気づかされた。
 さらにエンピリカルにいえば、北関東の地方都市の高校生で大学は群馬大学しか考えていなかった私が東大を意識し始めた契機の一つは『赤頭巾ちゃん気をつけて』であった。もう一つは、東大や東京工業大学について語りあっていた友人に触発されたことであった。当時、日比谷高校や東京大学は雲の上のような存在だった。ところが理由もなく、リビドーの作用か、志が生じた。何とか一浪で入学できたが、『赤頭巾ちゃん気をつけて』に描かれたエリートの世界は地方都市出身者に合わず、そもそも入れず、私は下町のセツルメントを志向した。
 私の年代でも麻布高校や灘高校で全共闘は残存していたものの、既に運動は沈静化に向かっていた(予備校の寮生やセツラーから側聞)。むしろ「受験地獄」の言説に表されたように受験競争が激化し、高校生の身心のエネルギーはどうしても受験にとられるようになった。


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