慰安婦と兵士の愛と死―限界状況において絡み合うエロスとタナトスの心理歴史的研究―第5章第4節その1(2020/6/25)

第四節 朝鮮人慰安婦と日本兵
第一項 春美と三上―「春婦傳」(一九四七年)―
(一)朝鮮人慰安婦への「泣きたいやうな慕情」と日本女性への「復讐」心
 これまで『春婦傳』の「序」や「自序」を取りあげてきたが、これから「春婦傳」の内容の考察に入る。「春婦傳」では「春美」という源氏名の朝鮮人慰安婦と日本兵の愛と鮮烈な自爆(心中)が描かれている。ただし、それは連合国の占領下でGHQの検閲により、表現に制約が加えられていた。尾西の『田村泰次郎選集』第二巻「解題」に拠り検閲や発表の経緯について述べる。
 「春婦傳」は『日本小説』創刊号(一九四七年四月一日、大地書房)に掲載予定であったが、GHQはCritisism of Koreansという理由で削除した(ゲラ刷り添付の検閲調書は『田村泰次郎選集』第二巻の資料として三四七~三四九頁に所収)。コリアン(朝鮮人)の描写に国家主義や民族差別があると見なされたのである。なお同号は「春婦傳」のみ削除されて発刊された。また、五月には検閲で削除されたものを収録した同名の作品集『春婦傳』(前掲)が出版された。
 だが、田村に民族差別はあったか? むしろ同じ限界状況に置かれ、しかも高級将校を相手にした日本人慰安婦に見下されたことから、田村は朝鮮人慰安婦に「同族意識」を抱いていたと言える。田村が『春婦傳』銀座出版社版「序」で「戦争の間、大陸奥地に配置せられた私たち下級兵士たちと一緒に、日本軍の将校やその情婦たちである後方の日本の娼婦たちから軽蔑されながら、銃火のなかに生き、その青春と肉体を亡ぼし去った娘子軍はどれたけ多数にのぼるだらう。日本の女たちは前線にも出て来られないくせに、将校とぐるになつて、私たち下級兵士を軽蔑した。私は彼女たち娘子軍への泣きたいやうな慕情と、日本の女たちへの復讐的な気持で、これを書いた」と述べたとおりである。そして「蝗」では原田を通して「同族意識」を描き出している。
 さらに尾西は「解題」で検閲を問い、「原文の冒頭にあった『この一編を、戦争間大陸奥地に配置せられた日本軍下級兵士たちの慰安のため、日本女性が恐怖と軽侮とで近づかうとしなかつた、あらゆる最前線に挺身し、その青春と肉体とを亡ぼし去つた数万の朝鮮娘子軍にささぐ』という作者の言葉も伝えられることなく読み続けられてきたのであった」と述べる(『田村泰次郎選集』第二巻、三六〇頁)。続けて尾西は「今日の人権意識からすれば、植民地支配を受けていた人々に対する不当な差別表現は許されるものではない」と述べているが、田村の文章に「不当な差別表現」があるとすれば、それは歴史的制約であり、むしろ「肉体」の原初的なエネルギーに由る点を重視すべきである。そもそもこれに類する表現は米国の大衆小説や映画などでも認められる。
 精神分析的にいえば、肉体において性器は排泄器官と近接・密接に関連しており、そのため性には不潔感、嫌悪感が付きまとう。愛の欠如した性慾の充足だけでは、事後に不潔感が湧き上がり、それに伴い相手の女性を嫌悪する。不特定多数の男と性行為を営む女性に対しては尚更である。だが、愛はそれを乗り越えられる。だからこそ慰安婦と日本兵の間に愛が生まれ、育ち得たのである。
 確かに、性に伴う不潔感、嫌悪感は慰安婦のトラウマの要因として認識しなければならない。ただし、老年期になっても「恨」を叫び続けることは、その解決にならない。むしろ、ライフサイクルの完結(統合性)という発達を妨げる。当然「支援」の名目で叫ばせ続けることは重大な問題である。

(二)「ピイ、ピイって、馬鹿にするか。天皇陛下がそれいうか。同じぞ」
 春美は既に「曹長」と寝ていたが、「中尉」で「大隊の副官」が乱暴に押しかけた。晴美は「あたしはあんたと遊ばない」と拒否すると、「中尉」は「馬鹿野郎、ピイの分際でなにをいうか」と迫る。これに対して彼女は「もうなにがなんだかわからないほど怒りで頭が燃え、身体がふるえ」て「ピイ、ピイって、馬鹿にするか。天皇陛下がそれいうか。同じぞ」と言い返す。田村は、このような発言は効果的で、朝鮮人慰安婦たちが「あらゆるとき、あらゆる場所で、なんど日本人に対して、この言葉を用いてきたろう。これは一つの民族的な逆手のようなものでさえあった。これをいえばたいていの日本人は黙ってしまうのだった」と書いている。
 実際、先述の「チョウセンピー、チョウセンピーって、バカスルナァ! テンノヘイカ、ヒトツトォ!」もある。金春子も「この体、日本人ととこちがうか」、「日本人と同じ米の飯食べてるんだ。日本人と同じ天子様が朝鮮をおさめているんだ。どこもちがわないね」と主張した。さらに文玉珠に至っては、酔って暴れる兵長が軍刀を出すと。それ奪い、殺し、このため軍法会議にかけられたが、「正当防衛」と認められ「無罪」となった(前掲『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』一二五~一二八頁。以下同様)。彼女は兵長に対しては「その刀は、天皇陛下さまからもらったものじゃないか。敵に向かって抜くべきものを、はるばるこんな遠くまであんたたちを慰安にきている私に向かって、なんで抜く。朝鮮ピー、朝鮮ピーといってばかにして。わたしたち朝鮮人は日本人じゃないか。そんなにばかにするなら、朝鮮を独立させる自信があるのか」と言い返し、また法廷では「裁判官の将校」に「敵に向かって使うべき天皇陛下さまからもらった刀を、はるばる慰安にきたわたしに向けたのは兵隊さんの間違いです」と陳述した(「朝鮮を独立させる自信があるのか」は福澤諭吉の脱亜論、新渡戸稲造や矢内原忠雄の殖民政策論に関わるが、別の機会に論じる)。
 当時「天皇陛下」という声は絶対的な効果を発揮した。朝鮮人慰安婦といえども、彼女が「天皇陛下」を口にしたら、日本人兵士は厳粛にならざるを得なかった。それを耳にした瞬間、立っていれば直立不動の姿勢をとり、座していれば座布団から離れ威儀を正さねばならなかった。これは軍だけでなく日常生活でも同様であった。戦後でも、私は子供時代に、大人がこのように話すのを側聞した。
 しかし、風紀・軍紀が弛緩していれば、そうではない。先述の「副官」は全く無視し、春美に迫った。まことに彼は天皇を利用して威張るだけであった。従って、この場面のリアリティは軍記の弛緩として捉えることもできる。「副官」は春美の「天皇陛下、同じぞ」に対して「こいつ、陛下のことをいうか、お前らのようなけがれた奴らが、そんなことをいって、いいのか」と言い返し、性交を強制(売買春+強姦)した。「神聖ニシテ侵スヘカラス」と真剣に崇敬している者が、慾情に駆られながら「陛下」と口にする所業を知れば厳重な制裁を加えるであろう。
 なお、池田は田村批判に関連して、二一世紀の段階で、二〇世紀の、しかも戦時下の言動いを追及するが、それが男性に厳しく、女性(春美や張澤民など)に甘い。さらに、池田は「春美」が「朝鮮半島の貧しい家に生まれて天津に売られ」たことを取りあげるが、朝鮮人同胞の人身売買について問わない。文玉珠についても、池田は「天皇を楯に兵士に対峙する」という「気丈」な点を取りあげているが、文玉珠が繰り返し逃亡しても無事で、それどころかダイヤモンドを買うほど稼いでいたことは言及しない。ダブル・スタンダードである。
 それが女性は被抑圧者、被害者であるから情状酌量するというのであれば、そのような立場=自分の限界を明示すべきだが、そのような自己分析は池田には認められない。つまり、確かに、当時、田村はじめ男たちは旧い「女性観や性意識に囚われて」いたが、その相互主観性において、女たちも旧い「女性観や性意識に囚われて」いたことを過小評価、さらには看過すべきでない。

(三)補論―大アジア主義の「内」における民族差別―
 日本軍の中国進攻には、孫文の中国革命支援要請への対応からの歴史がある。それは西洋列強の覇道に対する東洋の王道の実践であった。また、勃興するマルクス主義は軍隊にも影響し一君万民の天皇共産主義も一定の広がりを呈し、軍の階級の他は平等とされた。陸軍では、幼年学校や士官学校等の受験で内地籍と外地籍(朝鮮・台湾など)の区別をせず、朝鮮人や台湾人が将校になり、日本人兵士を指揮することさえあった。李王家の李鍝中佐(陸軍大学校卒、没後大佐)は広島で被爆死し、その直後、御附武官の吉成弘中佐は責任を痛感しピストル自決で殉死した。関連して貴族院では朝鮮勅選議員や台湾勅選議員がいたことも確認しておく。
 これらから、日本の民族差別は、ナチス・ドイツのホロコーストに象徴されるユダヤ人差別と異なると言える。ナチズムはユダヤ人を世界の「外」に位置づけた。この世界に存在させない激越な民族主義であった。寡聞・管見ながら、ユダヤ人がドイツ軍兵士に口答えし、さらに言い負かした例は見当たらない。ところが、「ちょっとやんちゃにみえる」朝鮮人慰安婦が日本人初年兵に「なまいきなチョックパリめ!」とやり返した(先述)。兵士(男)と慰安婦(女)の上下関係の中でも新米に対する先輩の態度を出せたのである。
 参考として、戦後一九六〇年代、中学生の私は“朝鮮人、朝鮮人とバカするなぁ。同じメシ食って、どこ違う”などを聞いた。これは金春子の二番目の発言の前半に相似する。私の周囲では、民族差別はあっても、朝鮮人がそのように言い返せる程度であった。また朝鮮人への蔑称「チョン」だけでなく、西洋人・白人には「毛唐」、アメリカ人には「アメコウ」、ロシア人には「ロスケ」などが使われていた。他方、日本人に対して英語では「ジャップ」、中国語では「小日本人」、「日本鬼子」、「矮奴」、「矮子」(白人には「白鬼」も)、朝鮮語では「チョッパリ」、「倭奴」があった(今も残存)。まだ各民族において相互主観的に民族的「脱中心化」(ピアジェ)が未達成な段階にあったと言える。
 このように大アジア主義の「内」にいたからこそ、慰安婦と兵士は「同志」的な関係になれた。田村の「蝗」では、朝鮮人慰安婦の京子が原田軍曹に「コラ、ハヤク、ヤリナヨ。グズグズシテイルト ヤラサナイゾ」、「ナンダ、ハンチョーカ。オマエ、ヤルノカ。ヨシ、コイ。ハヤク、コイ」と声をかけている。「オマエ、ヤルノカ。ヨシ、コイ」などの表現から、兵士は武器で戦い、自分は慰安で戦うという同志的でライバル的な気概が読み取れる。

(四)自爆の心中
 論点を「春婦傳」に戻す。三上上等兵は「副官」の「伝令」で、周囲から「馬鹿正直」と評されていた。だが、彼は晴美に迫られ「秘密の情人」となる。
 将校の「副官」は晴美に想いを寄せるが、彼女は三上を選ぶ。彼は乱暴で慾望が強く、さらに天皇を利用して威張るという虎の威を借る狐の類であった。晴美は野蛮な偽りではなく、「正直」を選択したのである。
 三上は八路軍の襲撃で負傷し、捕虜となり、晴美は付き添う。彼は治療を受け、帰るか帰らないか問われ、やはり「馬鹿正直」に「帰る」と答え、住民が担ぐ戸板に載せられて送り返される。晴美も付き添って戻る。なお、両軍は対峙しているが、民間人はそうでないというところに日本軍と中国共産党軍の特殊な関係(指導部の内通による)がうかがえる。
 帰った三上は留置所に収容される。この処遇を受け、三上は脱出するためだと言って晴美に手榴弾を求める。実は脱出ではなく、三上は手榴弾で自殺しようとする。その際、彼は春美を巻き添えにしないように「突きとば」したが、彼女は「あたしも死ぬ」と「しっかりと男の肩をつか」み、その時、彼の「瞳に、はげしい苦痛と、恐怖と、それとまったく反対の歓喜の光が、かっとかがやくのを見」る。そして、田村は次のように続ける。

 服従し、服従し、服従してきた者が、肉体と生命を賭けて、最後に示す圧迫者への不信だった。その二、三秒のあいだが、なんとながく感じられたことだろう。彼女のこれまでの生涯のなかで、こんなに充実した時間を経験したことはなかった。男の瞳をみつめて、彼女は恍惚境のなかにじっとひたっていた。

 手榴弾が「轟然と」爆発し「二人の心臓は裂け飛」び、「身体は互いの鮮血に染ま」り倒れ、その「紅い血がしずかに」流れた。そのように表明された「圧迫者への不信」は抑圧への抵抗であり、春美が「恍惚境」に到れたのは「歓喜」する三上と一体化できたからである。
 このような死に際の心境を聞くことはできないため、それは田村の想像・創造と読者、その一人の私の想像と他の資料との比較考察に基づく推論によるが、少なくともその可能性は否定できない。朴裕河も「慰安婦に対する愛情問題で自殺騒動を起こした軍人の話も証言集に出てくるのだから、あり得ることだったろう」と述べている(『帝国の慰安婦』八〇頁)。また第三章で既述したとおり雲南では手榴弾で心中したと思われる兵士と慰安婦がいた。それ故、これにも文学的リアリティを認めることができる。

(五)将校における虚飾や嫉妬と逆選抜による実力の低下
 「週番士官」の「見習士官」(つかの描いた鬼塚と類比)は「熱情あふれた」声で三上を「日本一の大馬鹿者」、「不忠不義」と非難して隊員に訓戒を垂れる。だが、兵士たちは「漠然とした不信」を「肉体」で感じ、「三上が勇敢な兵隊」で、「春美がいいからだをしたこの県城第一の美女であったことに、はじめて気づき、なにかうしないものをしたような頼りなさを覚え」た。それでも、彼女が「火葬にされ、本名も知られぬままに、この辺土に消え、その灰は黄塵のなかにまじって散り去ってしまった運命については」思い及ぶ者はいなかった。
 また、三上は「部隊の名誉を重んずる大隊長の意図」により「負傷箇所の化膿による急性肺炎で病死」とされた。「名誉」を名目に真相を隠蔽したのであり、虚飾である。これは実力にも影響する。このような大隊長の下だからこそ「熱情あふれる」訓戒を垂れる見習士官に対して兵士たちは「漠然とした不信」を抱くのである。
 そして「副官」は「春美の豊満な肉体を思いだして、三上真吉という兵隊に死んでも憎悪がすこしも減らないのを感じていた」。これは嫉妬であり、それを統御できない「徳=力(virtue)」の弱さの現れである。この程度の力量で副官となっているのは逆選抜の帰結であり、その指揮では実力が低くなって当然である。即ち、正直者たちが死に、野蛮で狡賢い者が生きる逆選抜であり、これにより「正直者が馬鹿を見る」、「軍人は要領を以て本分とすべし」などの心性が水面下で広がり、実力は低下する。このようにして日本軍が敗北した理由も示唆されている。
 虚飾や嫉妬が絡む指揮の下で軍紀は弛緩するため、兵士は「いいからだ」、「豊満な肉体」に想いを馳せる。そこでは歓喜や愛は全く省みられていない。欺瞞と肉慾の快楽が満ちた世界で精神は荒廃している。そのような世界では正直者は生き難く、生きたくもない。晴美は大隊の副官に気に入られ、妾になり、さらに自分が抱え主になれば、物質的には豊かな生活を得られたであろうが、そうしなかった。
 このように考えさせるのが田村の文学である。彼の「肉体文学」は肉体を徹底的に追究し、突き抜け、超える文学である。 

(六)赤・紅の意味―「中共の民兵作戦」―人民戦争―
 「春婦傳」の結びでは「夾竹桃の赤い色」が「紅い、どこまでも紅い」という情景が描写されている。「赤」ではない「紅」は心中した二人の血にも使われていた。作家がこのように繰り返すところには、当然、メッセージが込められている。尾西は「旧日本軍に抑圧支配されたアジアの人民解放を求めるシンボルとして〈紅〉という色彩が印象的に使われた」と評する(『田村泰次郎の戦争文学』二〇六頁)。実際、中国共産党の軍隊は「紅軍」と称され、赤旗は中国語で「紅旗」である。
 そして、田村は「中共の民兵作戦」の強さについて、以下のように述べている。

 情報係の報告ではすくなくも二箇団の優秀な兵力が、敵の根拠地である平山県方面より虎陀河をこえて、移動してきているらしい。日本軍にはわからなかったのである。土地の住民を訓練しておいて、襲撃の際は基幹となる正規兵力が根拠地を出発して目標地点に近づくにしたがって、兵力が雪だるま式に増加し、そのあつまった全力で日本軍の拠点を強打し、おわればまたつぎつぎとそれぞれ村に帰って、翌日はなに喰わぬ顔で鍬を持って畑に出ているという中共の民兵作戦の実体が、その一斑さえもまだわからなかったのである。これならば、どのような大兵力でも、一夜のうちに集結出来るのだった。日本軍はまさか自分の膝元の土地の住民が、そんなように組織的に武装化されているとは、気づかなかった。

 「平山(ピンシャン)」は河北省南西部に位置し、虎陀(滹沱)河は山西省から太行山脈を越えて河北平野に流れる。太行山は先述したとおり中国共産党の「根拠地」の一つであった。このような「民兵作戦」は正に「人民戦争」であった。これについて、ビアンコは次のように述べる(『中国革命の起源』一九三頁)。

 人々が二つの政府に従属することも起こった。昼間の政府と夜間の政府にである。彼らは、夜、パルチザンたちのために掘った塹壕を、日本人の命令で昼間うずめた。アルジェリアやベトナムで経験してからは、われわれにも身近なものになっている特徴を更にあげることができる。農民は二重に税金を納め、昼の支配者と夜の支配者の双方をそれぞれ相手にするための村の責任者のグループを二つ別々に組織し、また双方から仕返しを受けた。

 田村の文学的リアリティがビアンコの研究により補強される。ただし、山西では「政府」は二つだけでなく、中国共産党、軍閥・閻錫山、日本軍の三つであり、より複雑で微妙で極めてクリティカルであった。それ故、日本軍が不利になれば(山西では兵力が拮抗していても太平洋やインド~雲南では敗北を踏まえて党中央は判断・指令)、村民は離反する。それを中国共産党が吸収するという情勢を、田村は次のように暗喩している。

 大隊長の部屋のそとの院子には、夾竹桃の赤い色が、夏の真昼の陽のなかに枝いっぱいにひらき、虻が花から花へかすかな羽音をたてて飛びまわっていた。紅い、どこまでも紅い花の色であった。

 「院子」は中庭や敷地を指す。「赤・紅」が共産党とすれば、虻は「土地の住民」、「民兵」と読むことができる。「どこまでも」続く敵に日本軍は包囲されているが、それに気づかなかったことが暗示されている。改めて、大城戸中将の「敵の出方を簡単にいうと、蓋をあけてみたら赤くなっていた」を想わされる。ここでもリアリティが確認できる。文学的効果を高めると同時にGHQの検閲をかいくぐった作家の力量がうかがえる。
 既に資本主義・自由主義と共産主義・社会主義は冷戦へと進んでおり(ジョージ・ケナンの「封じ込め」政策は代表的)、GHQはこの箇所こそ削除すべきであった。「肉体」の原初的な表現を民族差別と見なしたことと合わせて、検閲官の力量の低さが分かる。
 その上で「紅」は三上と春美の流した血の色にも使われていたことに注目する。それは死をも象徴している。そして紅が「どこまでも」続くことは、三上や春美だけでなく、日本軍将兵は次々に戦死し、中国だけでなく、沖縄で全滅したことも想わせる。
 なお「人民戦争」に関して繰り返し指摘したとおり、「訓練」され「正規兵力」とともに作戦に参加する「土地の住民」=「民兵」は非戦闘員ではない。それ故、当然、日本軍は攻撃・反撃してよい。つまり、攻撃・反撃で死傷者が出たとしても、それは「土地の住民」である「民兵」即ち戦闘員であった。無論、補給や連絡の役割を担っていた子供、女性、老人についてはより慎重な検討が必要だが、そのような戦争を近代において実行した中国共産党の責任こそ問われるべきである。
 他方、日本軍は雲南でも、ペリリュでも、志願する慰安婦を押し止めた。それでも彼女たちは参戦したのであり、この相違を十分に認識しなければならない。

(七)“精神の悪魔”の追及・追究―田村を超えて―

 さらに、中華人民共和国成立後の反右派闘争、大躍進、文化大革命、天安門事件などを考えれば、まことに「赤・紅」い流血は「どこまでも」続いていると言える。無論、田村はそこまで考えていなく、むしろ中国共産党に共感している。
 この限界を認識し、超えることは後進の課題である。これは「肉体の悪魔」だけでなく“精神の悪魔”の追及・追究にもなる。

第二項 ヒロ子と原田―「蝗」(一九六四年)―
(一)予備的考察
①「蝗」と「温故一九四二」の心理歴史的研究としての意義・・・続く・・・

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