日本の青年・学生の心理歴史的研究―ノート 32の加筆修正

32.米ソ冷戦、中ソ対立、中国共産党と日本共産党の対立における東大闘争

(1)新左翼・日本共産党・体制の相互作用

 新左翼・全共闘の安田講堂「籠城」は、東大が正常化されていないことの証明であった。マルクス・レーニン主義や毛沢東主義では、階級闘争が激化し、階級的意識が高まり、支配・搾取への抗議が広がり、統制が弱まった部分で混乱が起き、それを広げて暴動、内乱、革命へと展開させることが説かれた。そのために非合法の地下工作が進められた。それは謀略だが、最終的な被抑圧階級であるプロレタリアートの解放を通した人類解放という大義を掲げ、この問題を糊塗した。「革命無罪」は端的な表明であった。
 従って、毛沢東主義に影響された新左翼としては正常化されてはならない。だが、ユーロ・コミュニズムの議会主義平和革命路線に同調し、中国共産党と対立・論争する日本共産党・民青は、そうではなかった。それは、南原・矢内原以来のできるだけ学生運動を理解し、対応しようという東大当局と協議し、ゲバルトではなく非暴力で東大闘争を収拾しようとしていた。これは学生自治の主導権を日本共産党・民青が掌握することになり、毛沢東主義に影響された新左翼のみならず新左翼全体として阻止しなければならず、この点で共闘し、全共闘が生まれた。その背後・水面下においては、世界革命の名でソ連から国際共産主義運動の主導権を奪い、世界に影響力を広げようとする中国共産党・政府が各セクトを支援していた。
 他方、体制としては、新左翼であれ、日本共産党・民青であれ、その主導で正常化されれば、東大が左翼に掌握され、いずれも阻止しなければならない。それ故、正常化は東大では無理で、機動隊で行わねばならない。
 この三者の相互作用において情勢は安田講堂「攻防戦」へと向かった。

(2)ゲバルトの内と外の呼応

 新左翼諸セクトは「国際反戦デー」の1968年10月21日、新宿区で暴動と呼ぶべき事件を起こし、それに騒擾罪(現在の騒乱罪)が適用された(新宿騒乱)。活動家は「騒擾罪をはねのけて闘うぞ」と呼号するなど、前から「罪」を自覚しての犯行であり、言い換えれば「革命無罪」の実践であった。
 翌11月12日、新左翼・全共闘は附属図書館の「封鎖」を試みたが(東京大学全学大学院生協議会・東大闘争記録刊行委員会編『東大変革への闘い』労働旬報社、1969年、pp.242-249)、共産党・民青系学生に阻止された。神水(永尾)は『清冽の炎』第三巻、pp.300-314で具体的に書かれている。22日、新左翼・全共闘は図書館を「占拠」、「封鎖」したが(『清冽の炎』第三巻、pp.371-377)、それは入口の前までで、しかも午後には安田講堂前に移動して気勢を上げ、さらに街頭デモへと転進した。
 この間、日本共産党・民青は御殿下グラウンドでゲバ棒の訓練を行っていた(川上の談)。結果的に、図書館は安田講堂のように「占拠」されなかった。もし、もしされていたら、他の教室や研究室のように荒らされかねなかった。中国の文革では焚書どころか様々な文化遺産も破壊されており、毛沢東主義者が図書館に雪崩れ込んだら、同様になった可能性は高い。
 篠原一の研究室が破壊され、マイクロフィルム資料などが毀損されたのは一例である。これに対して、丸山は「ナチスもやらなかった蛮行だ」と非難した(丸山自身の研究室が破壊されたという噂は誤解)。これを含めていくつもの破壊の跡は『週刊朝日』や『アサヒグラフ』などの写真で具体的に報道された。それにも関わらず、全共闘に賛同し、間接的に学生を煽動した教員は幾人もいた。丸山の場合も自業自得の要素もある。丸山は全共闘には許容的対話的であった。それが却って全共闘から非難されるが、大して反論せず、破壊の責任も追及していない。法学部の教授として「不作為」を問題としながら(『日本の思想』等)、この点で知行合一の良知が問われる。
 また「ナチスもやらなかった蛮行」は部分的に妥当である。確かにドイツという範囲ではそうだが、ユダヤやポーランドでは、研究の破壊のみならず、研究者、知識人を虐殺し、民族の文化を根絶し、民族絶滅を文化的にも貫徹しようとした。自国の研究を破壊し、研究者・知識人を迫害したのは、毛沢東主義の中国である。他方、大日本帝国では、軍国主義が強まってもマルクス主義、自由主義、英米文学作品などの文献資料は破棄されなかった。これも史実である。毛沢東主義を信じた者は、当時は知らなかった歴史的限界を考慮しても、文革の実態が知られた後は、これを踏まえて過去を総括すべきであるが、それを行ったのは数少ない(教員の問題はさらに後述)。
 新宿騒乱と東大図書館前の攻防戦は一カ月ほど間隔があったが、1969年18-19日には、安田講堂「攻防戦」と同時に「神田カルチエラタン闘争」が起きた。本郷キャンパスと神田地区が徒歩でも若ければ20分ほどの近さで、キャンパスの内外で呼応していたと言える。「カルチェラタン」はパリの地区名で五月革命で知られた。
 このような「ゲバルト」について、佐々は「機動隊の負傷者に比べて学生側の負傷者が少ないのは、『怪我人を少なく』という警備の大方針があった上、学生側は“未必の故意”の殺意ありと判示できるほどの凶暴の限りを尽くしておいて、いざ土壇場になるとすぐ手をあげ抵抗をやめて、逆に『暴力を振るうな』と抗議するという有様だったからだ」と述べる(検挙数も含めて『東大落城』p.19、及びpp.285-286)。警察の立場だが、先述したとおり、安田講堂屋上の高所からの投石や火焔瓶は正に殺人未遂である。
 これらは公然と行使され、画像・映像は無数に残っている。「造反有理」、「革命無罪」のイデオロギーやプロパガンダ(党派だけでなく一部マスメディアの同情的な報道も含む)から解放されて、その行為を法に照らして判断することができる。
 このように組織的に繰り返された殺人未遂にも関わらず、機動隊員が負傷ですんだのは、複数の武道の有段者で、能力が極めて優秀であったためである。

(3)何故、二日もかかった/かけたのか?

 学生運動の「天王山」と称される安田講堂「攻防戦」では、大学当局から要請を受けた警視庁機動隊が新左翼・全共闘の活動家を制圧し、バリケード封鎖を解除した。当時、新左翼各セクトも日本共産党・民青も全国からそれぞれ一万人を動員していた。学歴主義を批判しながら、「東大」での闘争を学生運動の代表・象徴と見なして全国から集まったことに限界を認識することができる。
 機動隊突入の直前、日本共産党・民青と革マル派は戦略的に撤退し、他のセクトでも様々な理由で離れたので、八~九千人の新左翼活動家が本郷キャンパスに立て籠もっていたと推計できる(各セクトの活動家は千から二千人という―数人から聞き取り)。そして1969年1月22日付け「朝日新聞」夕刊では「警官八千五百、本郷に出動」と書かれている。新左翼・全共闘の動員数と同規模である。一般に籠城を攻略するにはその数倍の兵力が必要とされるが、活動家とは言え戦いでは素人(せいぜいセミプロ)であり、しかも全共闘でも各セクトはそれぞれの拠点に籠城したので、プロの機動隊は各個撃破すればよかった。工学部列品館の攻略に少し手間取ったくらいで、短時間で安田講堂を包囲することができた。
 ところが、この攻略に二日間も要した。しかし見方を換えれば、安田講堂「攻防戦」を二日間も投石や火焔瓶の凄まじいゲバルトを全国に見せつけ、さらに制圧することで、それは敗北に帰結したことを知らしめることができた。同時に大学当局には管理能力がなく、これが大学の自治の実態だということも示せた。この点で、全共闘運動は学生の徹底的な自治を求めながら、逆の結果をもたらしたということができる。頭がよくて様々な概念や理論を雄弁に繰り出しても、空論で現実から遊離すれば、一枚上手のプロに利用されてしまうことの事例と言える。

(4)「いざとなると“日和る”要領のよさ」

 学生運動の「本丸」が「落城」し、これを契機に東大闘争は沈静化に向かった。ところが、全共闘運動は他大学に飛び火し、さらに高校にも及んだ。この要因としては、先述した東大当局が「矢内原三原則」を廃棄し、活動家学生を甘やかしたことに加えて、マスメディアの一部が火焔瓶闘争の派手な映像とともに活動家に同情的なメッセージを込めて報道したことも挙げられる。しかし、それは東大には当てはまらなかった。この点について分析を試みる
 機動隊導入の直前に撤退したのは、民青と革マルだけでなく、各セクトの東大生も多かった。つまり「籠城」では他大学の活動家が多かった。頭がいい東大生は機動隊が本格的に乗り出せば敗北は必至と判断でき、たとえ新左翼セクトに所属していても、結果が出る前にあれこれ理由を見つけて現場から逃げたと言える。救援対策や弁当の差し入れなどをしていたという仙谷由人はその一例である。そして、ノンポリや野次馬の東大生はこれを身近に見聞しており、当然、全共闘の評価は下がった。できない「大学解体」を呼号した帰結であり、自業自得と言える。
 佐々は「いざとなると“日和る”要領のよさと精神的なひ弱さは、いかにも秀才・優等生ぞろいの東大生らしい」と指摘している(『東大落城』p.305)。“日和る”は学生運動で頻繁に使われた日和見主義の派生語(言わば業界用語)で、佐々の用法には皮肉が込められている。
 安田講堂に籠城した「女闘士」もみな学外者であった(佐々『東大落城』pp.11ff)。無論、その気概や勇気は軽々に論じられない。佐々の文章の行間や紙背から、これに類似した所感が窺える。
 他方、最も重大な決戦(天王山)の前に引き下がりながら、事後にいかにも東大闘争に参加していたという類いの要領のよさに注意しなければならない。対照的に、他大学生で逮捕され、釈放後も地道に不器用に生き、東大闘争について自ら語らない者に注目すべきである(他大学だから「東大」闘争について話しにくい)。ビルの宿直、スーパーの夜間清掃など夜勤で生計を立て、動員に応じて昼の活動に参加するように相変わらず地味である。「夜勤だから、夜のややこしい会議は出なくてすむ」ということを聞いた。
 全共闘に関する言説や文献は無数にあるが、この一言はその全体に優るとも劣らないと私は考える。何故なら、当時の過激な空論、その後のヒロイックでノスタルジックな回想や講釈ではなく(しかも「自己否定」と叫びながら自賛的なものが多く)、是非はともかく、現実に立脚しているからである。無論、私にも弁明的な要素があると自覚する(誰もが自己愛を持つ)が、それに注意しつつ書くのは、口に出さない者た(『アイデンティティと時代』で述べた「海坊主」や高校生たち)の代弁になればと考えるからである。
 無論、今井たち最後まで闘い抜いた東大生もおり、ゲバルトの問題とは別に、このことを看過すべきではない。山本も大局的な戦略で安田講堂にいなかったと考える(日大全共闘のバリケードなどに潜伏と伝えられている)。

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